いかに未来を構想しうるか!??

 東京大学で行われた公開シンポジウムを見に行った。「軸の時代/ いかに未来を構想しうるか?」という壮大なテーマだったことと、パネリストのメンバーが、宗教学、哲学、社会学、作家、文芸評論家と多彩で、時間も4時間あるので、濃密な対話や議論があることを期待したのだが、期待外れだった。
 学生だけでなく一般も含めて100名を超える聴衆がいて、多くの人がノートをきちんととって真面目に“勉強”している。そして、シンポジウムとしての内容が伴っているとはとても言えないのに、主催者側は、「大変意義のあるシンポジウムだった云々」と、身内で満足している。こういうスタイルが「大学」の現状であるとすると、果たしてそこから“未来”につながる何かが生まれでる可能性があるのだろうかと、改めて考えさせられる機会となった。

 何が問題なのかというと、まず、4時間の80%ほどの時間を一人の教授が延々と自説を述べているだけということ。他のパネリストは、このシンポジウムに臨むにあたっての心構えを最初に述べただけで、あとの発言は、最後に1、2分ずつだけだったことだ。こういうスタイルなら、シンポジウムではなく、「講義」でいいと思う。
 せっかくメンバーが揃っているのに、その「講義」内容に、異論を挟んだり議論を発展させることがまるでないと、仮に講義の内容に矛盾があるとしても、強力メンバーが後ろ盾になって、その説を支持して強化するという形になってしまう。シンポジウムというのは意見を交わす場であってほしいのに、今回のシンポジウムは、一つの説を権威化する装置になっているという印象を私は持った。
 今回のシンポジウムで延々と自説を述べ続けた見田宗介名誉教授の考え方に関しては、私は納得いかないことが多かった。
 教授は、人間の歴史を二つの大きな変曲点でとらえる。一つは、おおよそBC500年頃。古代ギリシャの時代。そしてもう一つが、近代以降の時代だ。
 今回のシンポジウムで肝心なことは、近代以降の私たちの時代をどのようにとらえ、「いかに未来を構想しうるか?」というシンポジウムのテーマにつなげていくことなのだが、残念なことに、話しの70%以上が、BC500年頃が、どういう時代であり、なぜ歴史の変曲点なのかという話しになってしまった。
 BC500年頃の古代ギリシャ時代を歴史的転換期ととらえることは、別に新しい考えではない。哲学、芸術、民主主義、その他、人間世界に大きな飛躍があったことは間違いない。しかし、その時代の変化について、見田教授は、リュディア(現在のトルコ内にあった国家)における鋳造貨幣の始まりと関連づける。簡単に言うと、貨幣が生まれ、世界の無限化がはじまり、世界が「無限」であることの恐怖と絶望が生まれ、世界の「無限性」という真理を引き受ける思考の枠組みと、社会のシステムを構築された。それが、BC500年頃の変化なのだと彼は言うのだ。そして、近代以降の二番目の大きな変化状態に関して、近年のサブプライムローンの破綻や地球環境などを例に出して、「有限性」の自覚ということを見田教授は特徴にあげる。BC500年頃とは正反対に、『世界が有限であることの恐怖と絶望』が生まれ、世界の有限性という真理を引き受ける思考の枠組みと、社会のシステムを構築することが必要だと結ぶ。すなわち、教授によれば、一度目の変曲と二度目の変曲は、その変曲の方向を逆にしていることになる。
 しかし、近代以降といっても、現在と産業革命当時は状況が異なる。地球資源の有限性などが説かれるようになったのは、つい最近のことだ。今から2500年前の変曲が、「無限」を引き受ける時代で、近代の変曲が、「有限」を引き受けるべき時代という見田説は、あまりにも短絡的だと思う。
 BC500年頃というのは、BC1000年頃から始まったフェニキア人の地中海交易と、アルファベット文字の発明によって知識や情報が一般の人々のなかにも広く浸透していく過程のなかの一時点にすぎない。フェニキア人が、エジプト、ギリシャ、トルコ、北アフリカを結びつけることでグローバル化がはじまっており、リュディアの鋳造貨幣というのは、そのグローバル化に対応するために作り出されたと考えた方が理に適っていると思う。現時点で見つかっている最初の鋳造貨幣は、リュディアで作られたものであるが、それ以前に、貨幣がなかったわけではない。貝殻とか様々な方法で遥か以前から貨幣は存在しており、「BC500年頃にリュディアで鋳造貨幣がつくられ、貨幣という実態のないものはいくらでも作れるので、その時から無限という概念が始まった」のだという見田教授の話しは納得しがたい。
 貝殻等の貨幣から鋳造貨幣に移行したのは、グローバル化によって異なる地域との交易に対応するために、共通の価値観を示しやすく、かつ損傷しにくく、持ち運びに便利で、時を経てもあまり劣化しないものを必要としたからではないか。それ以前に大事なこととして、そのように広範囲の取引を行いながら一つの貨幣を共通にするだけの精神的な準備が整えられていたということがある。地域の違いを超えて、実際の物ではなく、貨幣という抽象化されたものを信用するということ。その貨幣の価値を安定化させるための力の存在と、諸国間の関係が既にできあがっていなければならない。すなわち、鋳造貨幣が出来て世界が広がったのではなく、世界が広がったから鋳造貨幣が必要になったのだと私は思う。もちろん鋳造貨幣ができたことで新たな局面も生じてきただろうが、もっとも重要な変化の起点が鋳造貨幣ではないと思う。敢えて言うならば、フェニキア文字の登場の方が、影響は大きかったのではないか。旧約聖書ヘブライ語も、フェニキア文字の流れから生まれているのであって、フェニキア文字革命は、経済革命だけでなく精神革命も引き起こしている。さらに言うならば、そのフェニキア文字を生み出す力が何だったかを考える方が重要だと思う。フェニキア人というのは商業の民だ。彼らは、地中海を広範囲に移動した。移動することで様々な文化、価値観、技術が交流した。文化や風土の背景の異なる人間を商業という目的で結びつけるために共有化しやすい文字を生み出した。それが、平易に記録できるアルファベットだった。イオニアで育った最初の哲学者タレスは商人だったが、彼は頻繁にエジプトなどに旅をしたらしい。イオニアで先進的な考えが発達したのは、エジプトとかの先進地帯に近いし、ペルシャとも交流があり、異なる文化、価値観に触れることも多かったからだろう。
 それはともかく、BC1000年頃のフェニキアの移動と言語革命(アルファベット化)などによって、変化が生じ、BC500年を経て、紀元後のローマの世界まで一つの流れがある。そして、ローマの後半には、生産量も減り、人口も減り、共通貨幣も使われなくなるのだ。
 ローマ後期、貨幣に対する信用が次第になくなり、都市商業も衰退し、都市から地方へと人が移動し、自給自足の経済が進む。移動も少なくなる。生産性も低下する。476年の西ローマの滅亡を引き継いだフランク王国においても、封建社会の自給自足状態が続き、貨幣経済は衰退したままだ。8世紀になり、フランク王国ピピン古代ローマの貨幣制度を見習ってデナリウス銀貨を発行したが、貨幣は一部の人たちだけが使っていた。
 ヨーロッパにおいて貨幣制度が再び発達するのは10世紀を境にサンチャゴ巡礼など、聖地への巡礼が活発になり、人々の移動が活性化してからだ。巡礼の拠点に町ができ、それがヨーロッパの都市に発展していくが、そこに様々な地方から人々が集まり、文化や技術の交流が深まる。12世紀になると、農業技術の発達により人口が増加し、商業が復活する。税金や地代も貨幣による納入になり始める。13世紀には、地中海を中心とした貿易が盛んになり、国王や諸侯だけでなく、ドイツやイタリアでは大きな都市が貨幣を発行する。その流れが、ゴシックからルネッサンスであり、BC1000年の時と同じように、人間の移動と交流が、変化のきっかけを作っているのではないかと私は思う。
 それはともかく、古代ローマの後半時点で、見田教授の言うBC500年頃を中心とした大きな流れの文明は既に停滞というより”後退”している。それに代わって、イスラム世界が、かつてのギリシャやローマよりも巨大な地域に影響を与える。イスラムの繁栄の力は、商業だ。中国から地中海にわたる広大な世界が商業的に結びつき、イスラムはそれを保護し、多くの人間が東へ西へと移動した。ここにも、人間の移動と交流があった。つまり、AD7世紀の頃にも、変曲がある。もちろん、古代インドにも、古代中国にも、それぞれ変曲があるのであって、人類の変曲を、BC500年頃のギリシャ世界と、近代ヨーロッパの二つとみなす考えは、欧米の知識人および、その影響を受けた人に特徴的なものだ。古代ギリシャと近代ヨーロッパを中心にものごとをとらえて、それを普遍化、標準化して、世界全体の枠組みにあてはめようとする考え方が、日本のアカデミックの場に増殖している。
 しかし実際には、BC500年を中心とする時代にも、他の地域の別の時代にも、そして、現代においても、一つの形を持った文明が、生起、急速な発展、停滞、衰退というサイクルをもっており、『有限性』の自覚というのは、それぞれの文明における停滞および衰退期に生じているのであって、見田教授が言う「近代」だけの特権ではない。
 事実、BC2000年とかBC3000年にも遡る可能性があると言われるメソポタミア地方で書かれたギルがメッシュ叙事詩に、『有限』と『無限』にまつわる話しが書かれていることは、多くの人に知られている。
「ある日、ギルガメシュは「永遠の命」が得られる不老不死の薬を求めて、部下のエンキムドゥと森に出かける。ギルガメシュとエンキムドゥは、「この森を伐採し、その木を使ってウルクの町を立派にすることが、人間の幸福になるのだ」と思い、森を伐る。怒ったフンババは、口から炎を吐いて襲いかかるが、ギルガメシュとエンキムドゥは闘い、フンババはエンキムドゥによって青銅の斧によって首を刈られて殺される。人類は金属器によって、森を征服したのだ。しかし、フンババ殺しの天罰を受けてエンキムドゥは死に、ギルガメシュは、あの世に旅立ちエンキムドゥを連れ戻そうとするが失敗する。不死の薬を入手できず、失意の末にウルクにたどり着いたギルガメシュは次の言葉を残して息絶える。
「私は人間の幸福のために、いかなるものを犠牲にしても構わないと思っていた。フンババの神と共に、無数の生きものの生命を奪ってしまった。やがて森はなくなり、地上には人間と人間によって飼育された動植物だけしか残らなくなる。それは荒涼たる世界だ。人間の滅びに通じる道だ」。

 今から5000年も前(BC2000年〜3000年)のこの物語のエッセンスは、BC500年頃を中心とした文明にも通じる。アテネ周辺は、かつて緑麗しい土地であったが、海洋交易に使う船をつくるため、多くの木が苅られて、荒涼たる土地になった。後に、古代ギリシャの植民都市だったイオニアのエフェソスの港が閉鎖され疫病が蔓延したのは、川の上流および中流部の木が苅られて禿げ山になり、泥水が川に流れ込み、港のある海を埋めたからだとされている。
 BC500年頃のギリシャ神話や旧約聖書に、このギルガメッシュ叙事詩が影響を与えているという説もある。だとすると、変曲点は、BC500年頃だけでなく、それよりも2千年程前にもあったということだ。さらに、ギルガメッシュの物語は、現代文明が直面している「有限性」の問題にも通じているのだ。
 古代や現代のどの地域文明においても、人間は「無限」を求めて脳をふるに働かせて、虚構世界を巨大化させていくが、最後に、虚構ではなく「実態」の有限性に直面する。その時、「自らを省みたり、足るを知る」思想が生まれている。
 BC500年が無限の時代で、近代が有限の時代という見田教授のアイデアは、どうにも納得いかないのだが、今回のシンポジウムでは自説に都合の良い事実だけを抜き出して、一方的に説明を行っていた。それを疑うことなく真面目に勉強することが学問だとすれば、その世界に未来はあまり感じられない。
 見田教授の考えが今回のシンポジウムに全て凝縮しているなどと思っていない。また、説が正しいか間違っているかという問題でもない。人によっては、いろいろな考え方があるだろうから、それはかまわないのだ。自分が共感、納得できる考えを持つ人を、いろいろ探して行くことも人生だろう。違和感があれば、その理由を考え、対話したり議論するのも人生だろう。しかし、シンポジウムという大仰な場で、何の議論も起きない状況のなかで、実際に多くの人が真面目にノートを取って勉強しているという事実がある。ここで示された考えが、シンポジウムという大仕掛けの演出と豪華ゲストによって権威化されてしまう運営の在り方じたいに、私は大いに疑問を感じるのだ。
 こういう内容で、「とても充実したシンポジウムでした」と、お愛想なのか本音なのかわからないけれど、大学関係者が言っているかぎり、大学のお勉強は、大学のなかの自己満足で完結し、社会の実情や未来とは何も関係ないものになっていくだろうと思う。
 大学(教授たち)もまた、身内意識から外に出て行って、社会そのものの中に入って社会の本当の実情を肌で知るという、予定調和ではない「移動」と「交流」を実現していくことによって初めて、変曲点に立つことができるのだろう。
 当然ながら、私たち個人もまた同じだろう。そして未来の構想は、そのなかからしか生じないだろう。