田口ランディの新作『パピヨン』を読む。
標高3500mの仏教聖地ラダックの書き出しから、死までの過程と死後のことを科学的医療世界から異端視されながら深く掘り下げていったエリザベス・キューブラー・ロスの言葉を軸に、そのロスの人生を取材するために訪れたポーランドから帰国してすぐに直面した実父の看取りのプロセスを織りまぜながら、文章が進んで行く。ここに書かれていることは、“事実”に即したことだから、内容としてはエッセイということになる。しかし、多くのエッセイが、自己意識を中心として世界を観察し、解釈し、自分の考察に必要な素材を自分の周辺に集めて行くという自己完結的な方法をとるが、この作者は、様々な社会的約束事に縛られている自己意識というフィルターを通して物事を見る事をどこかで拒み、それを相対化する視点を貫こうとしている。
ほとんど祈りのような感覚として、自己意識を超えた意識というものがあると作者は直観している。科学的に分析できないけれど、それは間違いなく存在している。その存在を指し示さなければ、自己意識を中心にした壁を高く築き上げて、自分を守っているつもりで孤絶化してしまう思考の悪循環に陥り、死を間際にした他者をも同じような壁のなかに閉じ込めてしまう現代人の悲劇を断ち切ることはできない。現代人の寄る辺なさは、現代人が世界の中心においている「自己意識」の寄る辺なさであり、その「自己意識」を強化しても、自分の周辺の壁を高くするだけで、中身が確かなものになるわけではない。だからといって、立派な人の「宗教的訓話」は、科学的思考が染み付いた私たちを心底納得させてくれるものでもない。
「自己意識を超えたところに、私たちが還って行くところがある。」もしくは、「自己の深いところに高次の宇宙意思がある。そこに行けば様々な呪縛から解放される。」そういうことを、言葉にするだけなら誰でもできる。
そもそも、「自己意識を超えたところ」を、言葉でどのように指し示すことができるのか。自分の言葉を、自己意識と切り離す芸当を、どのようにできるのか。絵や音楽の演出効果によって、「潜在意識」とか、「宇宙精神」などとタイトルをつけて、それらしき雰囲気のものをつくりだすことはできるだろう。しかし、私たちがふだん使っている「言葉」の使い方を外れることなく、自己意識を超えた世界を、どのように浮かび上がらせることができるのか。それができなければ、自己を偽りやすい人を丸め込めても、自己に正直な人を説得できない。
「パピヨン」という作品は、一部の引用を除いて、基本的に私たちがふだん使う言葉によって、自己意識を超えたところに意識を運ぶ困難極まる仕事に挑戦していると思う。大上段から発せられる宗教の言葉ではなく、日常の事実の正確な積み重ねを通して、私たちの自己意識を超えたところに向かって行こうとしている。作者がそのような情動を持つ理由は、現在の自分に退屈しているからではない。
実父ではあるけれど幼少からの記憶によって憎しみや嫌悪が勝り、彼を受容しがたい意識と、憎むべき実父を受容することなく自分の存在を受容できないと知っている潜在意識との間が引き裂かれており、自己意識を超えたところにあるものを意識自体が納得して受け入れること以外に、その引き裂かれが修復できないからだと思う。
社会的体面としては受け入れている風を装える大人ではあるけれど、自己意識は、それが欺瞞であることも知っている。だから苦しい。自己意識は大変手強く、簡単に手なずけることなどできやしない。心の底から実父という他者を受容できないかぎり、自分すら救えないのだ。
事実の正確な描写を心がけながら、通常の自己意識を超えたところに出て行くことは、通常の状態では、とても困難だ。ある種、異常な状態が必要になる。しかし、その異常が、事実としてあり得そうもないものになってしまうと、そこに表現されていることのリアリティは急速に失われる。
この作者にとって“幸運”だったことは、事実として充分にあり得る“異常”が、周辺に起こった事だ。ラダックにおける高山病は、誰にでも起こりうることであり、そうした状態の時、人間は、通常の意識とは違う世界が見える。自分が拠り所にしている意識が、宇宙の尺度ではないと体験として知らされる。
さらに、実父が癌になり、死までのプロセスを踏み始め、その父にほとんど一体化するほどコミットして、ともに歩む。このコミットは、肉親に対する情愛などという世間的な良識を超えて、通常意識を超える手がかりを得るために藁にもすがりつく作家の執念のようなものすら感じさせる。エリザベス・キューブラー・ロスは、自らの研究のため末期患者を求めて走り回り、「死にたかるハゲタカ」と非難されたが、田口ランディは、末期癌を宣告された憎むべき実父との付き合いという、これ以上は考えられない濃縮な時間を通して、ロスと同じことをやり遂げようとしたのだ。結果として、その父は、自分の死を通じて、娘をもう一度生んだに等しく、その瞬間、それまでの二人の複雑で歪な人生模様のパズルの凹凸が、きれいにはまって完成することになった。
そのパズルの絵柄は、田口ランディと父が新たにつくったのではなく、最初から存在していたものだ。
それが、何らかの事情で分かれ、歪な形の断片としてこの世に出現していたにすぎない。しかし、それは時を経て同じ場所に還って行き、最初のように一つになる。
自己意識というものは、アダムとイブの林檎のように、無分別の一つのものを歪に分割する働きをするものかもしれない。でもそれもまた、最後には必ず元通りになる複雑なプロセスにすぎない。一つのままだと何もわからないが、分かれて再び一つになるからこそ、全容がわかる。とすれば、苦しい自己意識も、神の恩寵だろう。
真の意味で他者を理解するということは、共感とか同意など、ともすれば自己を防衛強化する類のものではなく、自分と他者という歪な断片が、かつて分かれ、そして一つに還って行くところと、そのプロセスを知ることなのだろう。
『パピヨン』という作品は、実父の死という現世での分かれが、それこそ、宇宙レベルにおいて合一になる体験を、エリザベス・キューブラー・ロスに導かれて生み出された作品であるが、通常には起こりにくい様々なシンクロニシティが、たびたび事実として起こっている。
凹凸のパズルが散らかり放題の時は、なかなかそうしたシンクロが起こらないが、パズルの絵模様が微かに見え始めてくる時には、運命的な出会いを呼び込む力が自分に備わる。そういう時の自分は、ひらひらと舞い飛ぶ蝶の行き先を追う時のように、集中力もあって覚醒しているけれど、どこか朧げな状態になっている。自己意識は希薄だけれど、麻痺しているわけではなく、少し高揚し、活性化しているのだ。
自分の意識が変容する時、または、何かが創造される瞬間というのは、きっと、そういうものなのだろうと思う。