昨夜、NHKがやっていた「日本のこれから 雇用危機」を少しだけ見る。いつも、あの番組は「論点」が二者択一で極端だ。議論させるために二者択一の問いにしていると司会者は言うが、二者択一の議論というのは、けっきょく一般論であって、今日の問題は、一般論で導きだされる正しい答で解決できるものではないだろう。
例えば、ワークシェアリングにしても、仕事内容によって、事情が異なることは当然だ。
「社員の経験こそが企業の生命線だから、しばらくの期間、給与が下がっても全員雇用を守る」と言う社長がいる。社員の技術力や知恵こそが力となっている企業にとっては、当然そういうものだ。しかし、別の企業において、全ての作業工程を機械が行っているラインの横で、人間が機械とまったく同じ単純作業を繰り返している現場があった。なぜそうしているかというと、巨額の設備投資を行っても、いつ減産になるかもしれないので、「自動機械のライン」と「いつでも切れる人間のライン」のバランスを見ながら操業しているのだと言う。こうした現場は、正社員と派遣社員のやることがまったく違っており、派遣社員には技術も経験も蓄積しない仕組みになっている。
ならば、こうしたシステムの企業が悪いのかというと、簡単にそう言えない事情もある。大手自動車メーカーの厳しい納期指定などに応えるために「巨額の設備投資」を行っても、消費動向の揺れによって減産されると、莫大な投資が無駄になり、倒産するしかなくなる。といって当面の発注に応えなければ仕事はもらえないわけだから、その間をつながなくてはならない。右肩上がりの経済ではなくなっている今、「製造業」の生産体制を決める判断が、とても難しい状況になっているのは間違いない。
だから、派遣制度をやめるかどうか、ワークシェアリングが良いか悪いかと二者択一で政府が制度を決めればいいという問題ではないと思う。
働く側が、最低限の自衛の策として、派遣であれ正社員であれ、どれだけ働いても自分の経験、知識、技術に結びつかない仕事をできるだけ避けるべきなのだ。
昨日の議論の途中、「仕事が無いというけれど介護現場は人を欲している」という意見が、介護現場で働く人から出たが、それに対して、介護現場で働いたこともないし、それを見た事もない人が、「介護現場は待遇が悪いと聞きます。もっと労働条件を改善すれば人は働こうと思うのでは」という反論をしていた。この人は、単に新聞とかテレビで、そういうことを知ったにすぎないだろう。
こういう良識ぶった安易な発言が、介護産業で真剣に働いている人を貶めることになる。この職種に関して、「ああ、待遇の悪い業界ね」というイメージを広めることにつなげている。そもそも介護産業じたいが新しいもので、勤続年数も短い人が多く、待遇がどうのこうのというより、いろいろな経験を積みあげることを優先すべき時期の人も多いのだ。
私の知っている人で、東大を卒業して、介護現場で老人の下の世話に一生懸命に取り組む人もいる。労働条件が良いとか悪い云々ではなく、現場で起こることが全て自分の経験と知識と技能につながり、将来の自分にとってプラスだと明言する。
口先だけで、ああだこうだと言ったり、新聞やテレビの報道を見て分別にとらわれる前に、まず自分が動き、自分の感覚を通して、世の中の事情を知るべきなのだ。
このように不況でも、介護、農業、飲食サービスなど求人広告を出しているところはいろいろあるので、労働条件がどうのこうのと理屈っぽく考えて何もしないより、片っ端から経験することも、社会を知るうえで面白いかもしれない。
私は、海外放浪から帰国した当日、北向き四畳半、風呂無し、トイレ共同の1万6千円の家賃の部屋を見つけ、すぐに、食べ物にありつくために夕食付きの居酒屋のアルバイトをはじめた。食事付きであれば、ほとんど生活費がかからないと考えたからだ。テレビも冷蔵庫も扇風機もなく、寝袋だけだったが、それまで野宿とか安宿続きが多かったので、自分の部屋を持つことは快適だった。本を読み、近場を散歩することが娯楽だったが、別に惨めさを感じなかった。
居酒屋のアルバイトのお陰で、人に慣れ、世間がわかってきたので、他の職種をあたったが、高卒の学歴ということあって最初はなかなか難しく、焦った。アルバイトニュースなどで月給30万円可能、などとうたっているところは、詐欺まがいの商売(自殺者も出たり)しているところばかりで、そういうこともわからずとりあえず就職して、1、2週間ほどで辞めることを繰り返したこともあった。その当時の経験で、世の中には、いいかげんなビジネスをしている会社が多いことを知るとともに、それに引っかかる人も多いということを知った。いい加減ではなく真面目に仕事をしている小さな会社に務めたこともあったが、社内が対立的で、澱んでいて、先は長くないなあと思って辞めたら、やはりその後、倒産してしまった。一見、活気があるような会社にも務めたが、社員の数のわりに取締役が異常に多く、勢力争いに忙しく、巻き込まれそうになったので辞めた。やはり、その会社も、その後、おかしくなった。
当時は、派遣という概念はなく、アルバイトか正社員かだったが、20代の頃、私は、アルバイト先を変えたり転職を繰り返していた。私は、大学も2年間で辞め、海外放浪も2年だったので、2年程度のサイクルでころころと変わっていくのが自分の宿命かもしれないと当時は真剣に思っていた。
それらの全ての体験を通して、「人の言う事はあまり当てにならない」、「自分でやってみなければわからない」ということはよくわかった。
自分で動いて直接経験して初めて、空気感も含めて、言うに言われぬもの全体が把握できる。他人から聞くことは、その人がよほどの大人物でないかぎり、狭隘な価値観で都合良く処理されていたり、人やマスコミから聞いたことのコピーにすぎず、微妙なことの多くが殺ぎ落とされており、真に受けると自分が損をする。そこそこ参考にする程度で充分、という感覚が当時の自分のなかにできて、その後も、その思いを強めている。
自分が動いて体験して知ること。その体験を通して、まず信用できるものを見極める力を蓄える事。信用できるなあと思えるものが見つかったら、それを中心にして世界を広げていく事。信用できるものは、人、物、情報、場など、それぞれだ。信用できると思っても、何かの食い違いで裏切られたり、ミスマッチになることも当然ある。何を信用できて、何を信用できないかという感覚の精度を自分のなかで高めて行く事が、若いあいだの「経験」にとって、一番大事なことだと思う。世間が与える信用ではなく、あくまでも自分にとってどうなのか、ということが大事なのだ。そうした積み重ねが自分の適正を知ることにもつながるのだから。
昨夜の番組で、雇用問題の解決において、「技術」、「知識」などを取得させて、産業にメリットのある人材を育てていくことが政府の役割だという意見があり、この正論に対して、多くの人の賛同があった。これは、誰も文句が言えない良識的で無難すぎる意見である。
一人の若い男性が、「政府ではなく、自分で何とかしなければならないんだよ」と、憎まれ役になる覚悟で大きな声を出すと、「自分で何とかならないから、政府に何とかして欲しいのよ」という、当然予想されるような反論があったが、政府に何とかしてもらうという意識によって、何を信用すべきか見極める感覚が自分のなかから失われて行く事の方が、後になって、自分へのしっぺ返しになってしまう。もちろん、政府は何とかする義務がある。しかし、それとは別に、政府という存在が、自分の人生を賭けて信用できる相手かどうか見極める醒めた目も大事だろう。政府というのは「個人」ではなく、その時々の事情によって、ころころ変わるのだから。
「自己責任」という言葉も、巷に流布しすぎて、なんでもかんでも、「自己責任」に集約させる意見や、それとは反対に、「自己責任論は弱者を追いつめるだけだ」という短絡的な意見も多い。
「何を信用するか」ということに関しても、これだけ複雑な時代において、自己責任でそれを行うことは不可能だという意見もあるだろう。生活が安定しないと、そういう余裕がない、などと言う良識ぶった人もいる。そういう無難な意見は、誰にでも言える。誰にでも簡単に言えてしまうようなことを言っても、現状は何も変わらない。それ以前の問題として、大きな困難があるにしても、何を信用するかを見極める力を自分のなかに少しずつ養っていくことを諦めて放棄した人生が、果たして、自分の人生だと言えるのか。自分の思いとは別に、「現実がこうだから」と言い訳しながら、自分の進路を決めて行くやり方、自分の行動を決めていくやり方、自分のお金の使い方まで決めていくやり方、さらに子供にもそうした価値観を押し付けていくやり方に、根本的な問題が宿っているような気がする。