自分の中の壁

 滋賀県で行われていた「アメニティ・ネットワーク・フォーラム」に参加してきた。全国から福祉関係で働く現場の人、官僚、政治家、メディア関係者が大勢集まり、熱気に溢れていた。福祉の現場で働く人々は、自信とエネルギーに満ちている。価値観が錯綜として自己が行っていることの意義や意味について不確かになりやすい現代社会において、福祉というのは、常に「自己」よりも「他者」に意識が向かざるを得ない世界だ。他者の変化や動きに自己をどう対応させていくかに集中せざるを得ないし、やらなけらばならないことがいっぱいあるので、目標を失った自己が、空虚のなかで宙ぶらりんになっている暇はないのだろうか。
 このフォーラムで特に印象深かった体験は、東京大学先端科学技術研究センターの福島智教授と交わした、指点字を通した対話だ。
 福島さんは、目も見えず耳も聞こえないのに、まったくハンディを感じさせないだけでなく、私たちのように目や耳からの情報に頼りすぎて反応がパターン化してしまっている人間など足元に及ばない、抜群の適時適応力を発揮する。
 現代社会は、目や耳から膨大な情報が入ってくる。それらの情報は、目で見えたり耳に聞こえるという客観的事実としてそこに存在しているように私たちは信じている。しかし、目で見ることや耳で聞く感覚が、日々の”慣れ”のなかで次第に麻痺し、そのため適時適応する反応力が私たちから失われていることに対して、無自覚であることが多い。
 私たちは、目で見たり耳で聞いたりすることを、パターン化して処理していることが多い。つまり、わかったつもりになって、または、知らず知らずそういうものだと決めて、見たり聞いたりしている。そのパターンは、自分で決めているように思えて、実際は場のなかに生じている方向性によって形作られていく。
 シンポジウムのような場でも、話し合いが次第に予定調和になって、パターン化してくる。そうなってくると、話し合いから新しい気づきが生まれなくなる。本当は、そこから何が始められるかが大事なのだけど、話し合う前から答が決まっていることもある。
 雑誌、新聞、テレビなど情報を伝達する媒体の多くも、パターンが最初に決められていて、そのなかに情報をどう整理するかという思考になっている。
 今回のフォーラムのプログラムで、新聞、テレビなど報道に携わる人間と弁護士が集まって「マスコミの報道と障害者」を議論するシンポジウムがあった。たとえば、精神障害者が犯罪を起こした場合、精神障害者であることを伝えるべきか。それを伝えることは、精神障害者全体に対する偏見を増長することになる、だから止めるべきだ。もしくは、マスコミが伝えなくても噂が広がって事実が歪むから正確に伝えるべきだとか、報道の現場はどこもスクープをねらっていたり他に追随する体質があって、右へ倣えで、よくないことはわかっても、しかなくそうなっているといった意見等が展開された。
 しかし、実際の報道に際しては、おそらくその種の良し悪し基準ではなく、被害者の心情に共感しやすい大勢の人々への配慮が優先されているのではないだろうか。
 残酷な殺人を起こした被告が障害者のために責任能力がないという理由で、無罪になったり、減刑される。そのことに憤り、極刑を望む遺族の声を代弁する形で、メディアが論じる。そのつもりはなくても、減刑された理由を伝えるために、結果的に、障害者であることを伝えることになる。
 そのようにして、人々は、犯罪と精神障害者の関係を知っていく。知るだけでなく、減刑となったことに対する遺族の怨恨も心のどこかで共有していくかもしれない。
 被害者の心情、およびそれに共感しやすく、同種の犯罪に対する不安を増幅させやすい大多数の人々への配慮(迎合)を優先して、マスコミは報道する。
 大勢が支持するものが、正しく、モラルになる。時には、英雄になる。それが、マスメディア社会の特徴だろう。マスメディア社会というシステムは、そのシステムの都合で、モノゴトの取捨選択を行い、整理を行い、伝え方を決める。

  結果的に、多数に媚びる方向に情報が揃えられる。

 メディア報道に限らず、シンポジウム等に登場する文化人にしても、大勢が味方してくれるような言いやすい場所で、立派なことを言うことは、もはや大した意味がないのだ。
 言いにくい場所で、大事なことをどのように伝えるか。そこに、その人の徳と知性が発揮されるのだろうと思う。

 そういう意味で、イスラエル文学賞エルサレム賞」を受賞した村上春樹が、受賞を返上するべきだという声に安易に同調せず、かといってイスラエルにも媚びず、エルサレムにおいて大統領のいる前で、イスラエルのガザ攻撃を含む今日の人間世界に対する憂慮を、堂々と、丁寧に述べたことに、表現者の矜持を見る思いがした。

 彼は、そのスピーチで、例え話として、「高い壁」とそれにぶつかって割れる「卵」があり、いつも自分は「卵」の側に付くと言及した。
 このスピーチについて、一部メディアが、「(村上春樹は)、名指しは避けつつも、イスラエル軍パレスチナ武装組織を非難した。」とまとめているが、こうした安易な単純化と、そのように単純化されたものを見て、わかったつもりになって安心する構造こそが、私は、マルチメディア社会のシステムであり、それ自身が「高い壁」であると思う。 
 また、電車の中吊り広告をはじめ、メディアの多くは、このスピーチについては真剣に取り扱うことなく、このスピーチの前日にあった中川元大臣の醜態ばから過剰に伝え、盛り上がっているのだが、そうした報道を望む大勢と、それに媚びるメディアの風潮もまた、「高い壁」だという気がする。 

 村上春樹は、実際には、このように言っている。

 http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

 この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
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今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
 このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。
 これが、私がお話ししたいすべてです。

 村上春樹が、名指しを避けつつも非難しているのは、イスラエル政府やパレスチナ武装勢力という、部外者の顔で簡単に論じることのできる相手だけではなく、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさや、魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを、無きもののように扱うシステムなのだ。そのシステムとは、国家が私たちの知らないところでかってに作り出すのではない。異質を排除し、個人よりも集団のメリットを優先させるシステムに、集団から村八分されたくないがために参加していく一人ひとりが、それを作っていく。その集団のシステムに所属することは、「いじめ」などから逃れ、安心につながるように思えて、実は、一人ひとりが食い物にされていく。そのことを忘れてはならない。
 村上春樹は、おそらくそういうことを言っている。高い壁は、自分の中にある。人間は、誰でも安心を求める。そのことじたい非難されることではない。しかし、だからといって、臆病になりすぎ、無難を求めすぎ、大勢に迎合し、他者を自分に都合良く単純に解釈することが当たり前になっていくと、それが集まった時に、巨大な暴力になるということを、人類の歴史が示している。
 村上春樹に対して、エルサレム賞の返上を求める声も多くあったらしい。しかし、おそらく、そうした判断と行動が、「イスラエル非難」という旗印のもと無難で大勢に迎合したものであれば、「いじめ」に合うのを避けるために他人をいじめてしまう臆病さと、どこかでつながってしまうという感覚が彼にはあったのではないか。日本にいて、「イスラエルを非難します」と口先で発言することは、簡単なことで、かつ一般受けしやすい時代なのだから。
 今の時代、「政府」よりも恐いことは、「顔の見えない大勢」を敵にまわすことだ。こういう言い方も紋切り型だが、とりわけメディアは販売部数や広告収入に関わることだから、できるだけ大勢に寄り添おうとする。
 冒頭の「マスコミ報道と障害者」の議論にかぎらず、マスコミ報道で一番要になってくる論点は、大勢を敵にまわすことになっても、マスコミは、言うべきことを言える矜持を持っているかどうか、ということに尽きるのではないかと思う。
 大勢の考えや価値観を代弁することを使命として、そのことによって糧を得ているマスコミが、大勢の耳の痛いこと、知りたくないこと、気づきたくないことを示すことができるかどうか。
 障害者の立場や被害者の立場、さらに子供の「いじめ」を良識ぶって論じることよりも、システムを作り上げる集団の構成員になって安心し、同時にそこから外されて孤立化することへの不安を抱きつつ、システムの肥大や増殖に関与し、直接的でなくても間接的に「いじめ」に荷担している自分自身を、まず問わなければならないのだろうと思う。

 とはいえ、私自身もそうだが、「量」の拡大が収入につながり、収入なくして食べていけない社会システムのなかで、どうやって糧を得ていくかという問題が常につきまとっている。「いじめ」に合うというのは、”苦痛”だけでは済まず、生存と直結すことであって、だからこそ、それはいけないと言うことは簡単にできても、実際に行動することが難しいのだ。
  ただ、最低限のこととして、システムのなかのパターン反応に安易に同化してしまわないことを、情報伝達を仕事とする者の責任として、心がけていなければならない。

 目や耳からの情報に慣れてしまってはいけない。それらの刺激は、とても慣れやすいものであり、知らず知らず、その感覚が鈍磨してしまうことを自覚していなければならない。
 福島さんは、目も見えず、耳も聞こえなくても、彼ならではの方法で世界とつながって生きている。ということは、視覚や聴覚でキャッチできるものとは別に、私たちがないがしろにしているモノゴトが世界には多大に存在しているということだ。人間の目で見えるのは、しょせん可視光線の範疇で、耳で聞こえるのも特定の周波数の範疇だ。目と耳の感覚が、マスメディアをはじめ今日の大量生産システムで規格・標準化されて作り出されるものに同化されてしまわない方向に向けることと、目と耳以外の領域で世界や人間を感じ取ることを普段から心がけることが、いざという時の反応力につながるのではないかと思う。