元には戻れない

 今朝の新聞の社説に、「米国は万全の対応を」という立派な言葉が掲げられていた。
 米国の保険最大手グループAIGが9.6兆円もの天文学的な赤字を出し、米政府が、約2兆9千億円もの大金を追加して救済しようとしていることに対して、危機の連鎖を防ぐために、「米政府は支援の手を緩めず、家計や市場の不安を和らげるために手を尽くしてほしい。」と、新聞は書いている。
 こうしたメッセージは米政府向けのポーズではあるが、「米政府」が、こんなアバウトな記事をいちいち読むはずがない。誰に対するというのでもなく、「新聞社の良識」を、読者に向かって宣言したいだけだろう。
 「良識」といっても、「今回の経済的危機を憂慮していますよ」という程度のことにすぎないのだが、「危機の連鎖」を大仰に叫びながら、税金を使って特定の大企業を救済することに対して、「一般のみなさん、どうか事情を理解してくださいね」と呼びかけていることにもなる。つまり、「一般のみなさん」の思考を誘導しようとしている。
 「危機の連鎖」とか言いながら、従来の経済体制が大きく揺らぐことで最も打撃を受けるのは、これまでの経済体制で恩恵を受けていたものだ。これまで大して恩恵を受けてきていない者は、今回の揺らぎを心のどこかで楽しみながら、次に何が起こるか期待するところもある筈だと思う。
 もちろん、従来の経済体制で大きな恩恵を受けているところにぶらさがる形で大勢が配分を受け取り、かろうじて生きのびてきたという現実もあるから、その元締めが崩れると自らの糧も失ってしまう不安があり、そのことを強調されると、税金を使って元締めの救済を行うことに反論をしにくくなる。
 そうした情報操作によって、これまでは、既得権組はしっかりと権益を守り、そこから僅かなおこぼれを受けていた者は、自分は精一杯努力し致命的なミスもしていないのに、体制をコントロールしている側の安易な判断や怠惰や失敗の影響を常に受けて浮き沈みを繰り返すという、不条理な世界に何度も引き戻されていた。
 新聞やテレビなど大メディアは、従来の経済体制に寄り添うことで広告収入という莫大な糧を得ていたわけだから、その体制が大きく揺らいでいる今、なんとかして以前のように楽に稼げる状態に戻ることを願う。(当人たちは、楽に稼いでいたなどと思っていないだろうが、看板を外して社会のなかで身一つで闘えば、そのことがよくわかる筈だ。)
 というような事情で、税金を使って旧経済体制を維持することをメディアが主張するのは仕方ないが、私は、いくら税金を使っても元には戻らないし、税金がその場凌ぎの無駄金になるだけだと思う。
 日本国内の消費経済世界は、バブル崩壊後、「失われた10年」と言われた時代と本質的に変わらないまま移行してきた。とりわけ若い世代で消費活動が低調になっている流れは、今後さらに強まると思う。消費財などは、安ければ買ってもいいけれど、高ければ敢えて買う必要などなく、昔の人のように簡単に広告に操られることはない。
 国内のそうした状況に対して、自動車も含む消費財メーカーは、アメリカのバブルに乗じて生産数をあげ利益を生み出すことで、”好調”と見られていた。また、日本国内においても、アメリカのバブルの恩恵を受けた投資家たちが、贅沢品を買いあさることができた。日本のメディアは、そうした消費経済の最終コーナーのようなところにアンテナをシフトし、そこから利益を搾り取った。
 しかし、アメリカの経済活況は、しょせんバブルだった。実態経済を大きくうわまわる仮想マネーが、間違いなくそこに存在すると集団で幻想を抱くことで成り立っていた。
 しかし、無いものは無いのであって、夢から覚めると、借金しか残らない。もはや、被害を最少に食い止める努力をどれだけできるかが重要課題であって、バブル期の水準に戻る筈がないのだ。
 つまり、日本のメーカーが作る消費財も、以前のように売れない。
 以前のように売れない、ということを前提に生きのびるための策が、各企業の現在の動きにつながっている。
 これまで蓄えた貯金がたくさんある筈なのに、今期の一回の大赤字で、雇用が大幅に削られている。そして、広告予算が大幅にカットされている。
 そして、消費者は、高度経済成長時代のように給与が右肩上がりで増えるということを前提にした購買を、これからも行わない。給与が増えない、もしくは無くなってしまうかもしれないという前提で備えるしかない。
 当然ながら、就職においても、そういうことを真剣に考えて選択することが大事になるだろう。
 間違いのない仕事選びというのは難しいが、少なくとも、「自分は精一杯努力し致命的なミスもしていないのに、体制をコントロールしている側の安易な判断や怠惰や失敗の影響を常に受けて浮き沈みを繰り返すという不条理な進路」を避けようとすることが、賢明ということになるだろう。
 環境がどういう状況になったとしても生きていける地力を身につけること。つまり、資格や肩書きではなく、”実際力”が必要になる。という言い方をすると、昨今の大学における”専門学校化”が、そうした変化に応じたものだと考える人もいるが、私は、そう思わない。
 既存のシステムへの対応のためのハウツーやスキルは、システムが変われば役に立たなくなるので、実際力とは言えない。
 実際力というのは、そんなに脆弱なものではなく、タフなものだ。どれだけ知識や技術を持っているかではなく、その都度、必要に応じた技術や知識を敏速にものにできたり集めたりできるフレキシビリティーが大事なのだろうと思う。
 ならば、どのようにして、そのフレキシビリティーを身につけることができるのか。
 正しい答はわからないが、一つ言えることは、”危機”を経験せずにフレキシビリティを身につけることはできない。
 フレキシビリティーというのは、生物の本能に備わった生存戦略のなかで、もっとも高等なものだと思う。しかし、その能力は、生存に楽な環境では、スイッチが入りにくい。
 自分も含めて、フレキシビリティーに欠けるなあと感じられる状態になっている時は、自分にとって楽で都合の良い状態を手放せないだけなんだと自戒する必要がある。
 全ての生物が潜在的に備えているフレキシビリティの回路は、自分に都合よく楽な状態のなかで錆び付いてしまうと、いざという時に”オン”にならないのだから。