お酒を飲んで裸になる方が、人間らしいなあ。

 お酒を飲んで、裸になって騒ぐなんて、なんか縄文人みたいで、人間らしいなあと思う。
 都市管理社会は、そうした、ちょっとした”野生”の扉にも頑丈に鍵をかけて閉め出してしまわなければならないものか。
 「反省しろ!」「反省しろ!」「反省しろ!」「反省しろ!の大合唱の方が、不気味だ。
 私は善良なる一市民ですと、すました顔で、みんなと同じことをやっていさえすれば仲間はずれにされることもないだろうと無難なことだけやって、何も冒険せず、冒険できる人間を羨ましがったり嫉妬したりして、その人が失敗したら、「ざまあみろ」と罵る。
 お酒を飲んで、裸になって騒ぐのは、ストレスからではなく、自分の中の野生が外に噴出することが時には必要だからであって、それによって人を傷つけるわけではない。
 外見の体裁ばかりを気にして、上品ぶり、善人ぶり、自分の倫理観を押しつけ、自分の思うようにならない相手を許さず、徹底的に攻撃する。そうした”モラル”を集団で押しつける社会が、誰もが自然に持っている野生を歪ませる。
 子供が歪む理由があるとしたら、飲んで裸で騒ぐ人間ではなく、外見の体裁ばかり気にした姑息な大人の方だろうと思う。
 都市管理社会の住民は、自分が拠り所にしている姑息な価値観が、自分に管理できない野生的なもので大きく揺さぶられることを心のどこかで知っていて、それを警戒している。
 ストレスがあるのは、自分のなかの小さな檻のなかに、自分自身の野生を閉じ込めて、コソコソと生きている人間の方だろう。
 いつの日からか自分で自分を飼い慣らし、そつなく生きていくことが良い生き方だと信じ、物事を計画的で筋道だったものにしたがり、理解可能なもの、わかりやすいものだけで身の周りを固めたがる。そして、自分にとって好都合のものだけ周りに置きたがる。そのように、知らず知らず自分を狭いところに追いやり、実はそこが牢屋だということに気付かないまま生きていく。
 自分が入り込んでいる穴の小ささは、自分では気付けない。自分にとってわかりやすいものだけで周りを固めていると、そこからはみ出たものは全て自分にとって敵のように感じるのだろう。そうした状態に陥った人間が集団化した方が、よほど恐い。