”マトモ”について思うこと

 教育とは、「受験勉強のため」ではなく、「社会の成員としてふさわしい存在へと育て上げていくためのもの」と主張する人があるが、私はどちらもしっくりこない。といって、どういうことが個性なのか、教える側もよくわかっていない、形ばかりの「個性教育」も問題あるなあと思う。
 教育は、そもそも教育する側の人間がどれほど信頼に値するものかという問題が常にあるわけだが、そこのところをまず先に考えてから、「教育」の議論をはじめなければならない。
 “信頼”といっても、様々な基準があり、「社会的にマトモでない」ということで教師失格の烙印を押される人も多い。ならば、「社会的にマトモ」に見える人の言うことが本当に信頼に値するのか。そして、「社会的にマトモ」と言われる人たちが作り上げている近代社会が、信頼に値するまともなものか、という問題も残っている。
 近代社会そのものが歪であるならば、その世界のなかの「マトモ」は、歪さの上にあぐらをかいているということでもある。
 そういうことを言ったらキリがない、というのが、社会の中でまともに生活を送っている人の言い分だろうが、「キリがない」と言いながら、見たくないことは隠し、歪みの上に歪みを重ねていくことが行われているのが日本の現状だ。
 今の日本の教育システムの要にあるものは、大学制度だが、最近、大学を相手にいろいろ提案することがあって感じるのだが、「大学」が若い人の将来のことを真剣に考えているとは、とても思えない。
 学生を消費者のように扱い、いろいろな設備をそろえて学生に気を遣っているし、就職のことを心配してあげたりもしている。
 しかし、例えば私が何かを提案しても、「今の学生には、それはちょっと難しすぎるだろ」と、教授会で却下され、ポップで楽しく学生に媚びたものが求められる。そうしたスタンスが、教育者としてマトモなのだろうか。プレゼンの時に、眠そうに、めんどくさそうに、大きな欠伸をする大学教授もいる。
 あと、どこの大学も、大学院の募集人員を増やし、熱心に大学院へと学生を誘導しようとしている。少子化で大学生の数が減っているので、大学院生の数を増やしてやりくりしようとしているのであって、若い人のことを考えてそうしているのではない。大学の生き残り競争にすぎず、中途半端に大学院に進み、後で苦労するケースは増えている。もちろん、そうしたことは、当人の責任ということになるのだが、この社会で、大人が仕組んでいることは何がマトモなのか、さっぱりわからないのだ。
 私は、子供のテレビゲームに反対で、買い与えない。クラスでテレビゲームを持っていないのは2人程度らしい。テレビゲームがなければ、子供は自分で自分の遊び方を発明して、遊んでいる。大人から見れば、ヘンテコリンな遊びだけれど、自分が発明した遊びは当人にとっては面白いらしく、時間が経つのを忘れて打ち込んでいる。 
 テレビゲームが良いのか悪いのか正確には知らない。でも子供にとって、人に与えられたゲームに打ち込むことより、自分でゲームを作り出す方が良いような気がする。
 別に、それが良いことでなくてもいいのだけれど、私がゲームに対して不信があるのは、子供をビジネスターゲットにしていることなのだ。子供から利益を稼ぎだそうと子供を分析し、戦略を立て、あの手この手で仕掛けている大人のやり方が、気に入らない。子供の遊ぶものとしては、けっこう値が張るものなのに、それをそう感じさせない策略がある。
 ゲームに限らないけれど、この社会は、子供は大きなビジネスターゲットになっている。子供を巻き込んで商売をしようという魂胆が見え見えの大人から、「社会の成員としてふさわしい人間づくり」などという言葉を聞かされては、その真意とはいったい何なんだと思わざるを得ない。
 学校の先生にしても、その人が、たとえば学校という経済不況から守られた職場を辞めて、社会のなかで何をやっても活き活きと堂々と生きて行ける人ならばいいが、そうでない人であるならば、果たしてその人の言っていることを、将来、経済不況の中でも何とか生き延びていかなければならない人は、どれだけ信じれば良いのだろう。中学生〜高校、そして大学を中退するまで、私はずっとそう思っていた。先生の言っていることをマトモに聞いていても仕方がなく、自分で考えるしかないと思っていた。
 ただ、自分の頭だけで考えても何もわからない。信用でき参考にできるのは、先生の言葉ではなく、先生も含めた全ての大人の、身をもって示す何かだ。
 もっとも大事な教育というのは、人が口先で言う「言葉」はあまり当てにならないことを教える事。そして身をもって何かを伝えることのような気がする。
 そういうことをきちんと教えさえしていれば、つまらない詐欺師に騙されることもない。
 「人の言っていること」、すなわち言葉だけであれこれ言うだけの者は信用に値せず、言葉ではなく、その人の態度や行動など、言葉になりきれないところをしっかりと見る力を身につけることが大事であり、それを身をもって教えることが教育なのだけど、それが一番難しい。
 近年、教育の在り方について、口先だけの議論が多すぎで、言葉による解決案というものは、ますます悪く歪んだ方向に物事を導いて行く。
 言葉はいくらでも人を欺くことができる。しかし、例えば、本当に美味しい作物を育てること、住む人の立場に立った家を建てること、などは、物事の本質に添ったことであり、その場しのぎのゴマカシは通用しない。
 口先ではどうにもならないことを達成するために、果たしてどういう努力が必要なのかということを学ぶことが、一番の教育だと私は思う。
 大学進学とか有名企業に入ることなど、固定した目的地に向かって脇目もふらず、自分のことだけを考えて走り続けるという単純な努力の仕方は、目的地そのものが崩壊した時など、自分を修正しずらくなる。
 いい作物や家を作る努力は、完成物はあくまでも結果であり、その過程において、いかにして対象物と付き合って行くかということが大事になる。
 自分の思うようにならない癖のあるものと向き合いながら、対象の癖と自分の癖(自分のやり方)がうまく調和するポイントを見つけ出すために、いろいろ手を入れて行くこと。美味しい作物を作る事とは、そういうことだろう。
 また、社会のなかで生きて行くということも、けっきょくは同じだ。社会は常に変動し続けており、かつて覚えた成功パターンが次もうまくいくとは限らない。ましてや、頭でっかちの学校の先生から言葉で教えてもらった知識などが通用するわけがない。その都度、社会の癖(会社勤めであるなら、上司の癖や顧客の癖ということもあるだろう)と、自分の癖をジクソーパズルのようにうまく組み合わせるために頭を働かせ実際に行動することで、相手の癖も自分の癖も生きたものになる。
 環境がどう変わろうとも生きて行ける知恵というのは、おそらくそうしたものであり、教育で必要なことも同じだ。現在の教育で一番問題があるのは、大学を頂点とする教育システムに従事する人のなかで、相手の癖と自分の癖をジクソーパズルのように組み合わせながら環境変化のなかで最善の形を作り出すことに長けた人が、非常に少ないということ。大学教授のシンポジウムに参加するとよくわかるが、ほとんどの人が自分の専門のことをペラペラと喋るばかりで、その場で何を話すべきか、周りの人の話とどう接点を見出していくか、周りに神経を行き届かせながら勘を働かせようとする人が、本当に少ない。対談であっても、相手のことを何も知らずに臨んで、自分の言いたい事だけ喋って終わりという人があまりにも多く、そういう人はちょっと信用できない。なぜなら、そういう人は、この社会のことを憂いているようなことを言っていても、実際は、今の価値観が変わらない方が自分の立場も安泰だし、子供を餌に稼ぐ大学(受験料収入を増やすことに忙しい)の砦のなかでやりたいことも続けられると、心のなかで思っているに違いないからだ。
 子供を大学に入学させるために、幼少の頃から莫大なお金とエネルギーをつぎこむ大人たち。このシステムが、日本に大きな損失と歪みを生み出していることは間違いなく、このシステムに終止符を打つことの方が、子供の教育をどうするかという議論よりもかなりの部分でマトモな社会に近づける道だと思う。しかし、このシステムの恩恵を受けている人があまりにも多いので、そういう議論は盛り上がらず、このシステムを維持することにメリットのある人たちによって、教育論ばかりが行われている。
 「教育論」というのは、自分が都合の良いように「マトモ」の基準を決めている人たちのなかの口先の議論であり、それ以前にやらなければならないのは、本当はいったい何がマトモなのかを知ることだ。それを議論するのではなく、自分で考え、態度と行動で示していくこと。それが”本当のマトモ”を身をもって知っていることだろうと思う。そのマトモさが、社会的に多くの人が共有しているマトモさかどうかは別問題のこと。どこかから借りてきたようなことを偉そうに言うことがマトモだと思っている人が多いが、そのマトモは、きっちりメンテナンスされた機械のマトモであり、その機械が本当の意味でマトモなことに使われるとは限らない。