言葉のちから

 風の旅人の第31号〜第37号(6/1発行)まで、表紙を制作していただいた望月通陽さんに、次号で文章を書いていただくのだが、その原稿が届いた。
 若い頃、染め物職人として実用品を作って人々に喜んでいただくことを仕事の生き甲斐にしようとしていたけれど、あるきっかけで、実用としての物作りではなく本づくりという表現行為に関わって行くことになる際の葛藤と、そこからの跳躍を、望月さんは、言葉で表現してくれた。
 それを読んで、改めて思った。やはり人間には、言葉でしか伝えられない領域があるということを。
 たとえば土器作りのように言語を介さない身体行為は、その時間のなかにスッと入って行ける。
 しかし、望月さんが、言葉で書かれたように、「実用」や「自分が好きなこと」から社会に向けた「表現」に足を踏み出す時は、何をどうすべきか悩む。好きとか嫌いという範疇を超えて、その行為の根拠みたいなものが必要になる。実用の場合は、それを使ってもらえるという具体的な目標がある。しかし、表現の場合は、目的が曖昧になる。社会正義の旗をかざすこともできるだろうが、自分では無自覚のまま、それが誤っている場合もあるし、自分の手を介在させることで世界を歪めてしまうかもしれない。
 表現者として生き始めた望月さんは、自分の作品を人目に晒すことに対して、今でも恐縮しまくっている。物を作る事は喜びであるが、畏れ多くも、表現を通して世界に介在しているわけだから、果たしてそれでいいのかという煩悶が、自分につきまとっているのだろう。
 私の場合、本業は旅行業であり、こちらはわかりやすい世界だ。お客さまに満足していただく。そして、できれば自分たちのサービスのファンになっていただく。まず、その努力を精一杯にする。さらに、より多くの人に知っていただくための知恵を絞る。そのように勤めながら、出ていくお金より、入ってくるお金が大きければ、食べていける。
 それに比べて、「風の旅人」は、いつも無の状態から編集をはじめることになるのだが、その基準が、世間で流行っているものを探すこととか、実用的な情報といった具体的なものであれば、それに添ったアンテナの張り方をしていればいい。しかし、「風の旅人」は、そういう作り方をしていないので、いつも宙ぶらりんの状態になる。
 そうした時、自分の脳のなかには、様々な思い(言葉)が去来し、それが心を圧迫する。奇跡的に、新たな認識(言葉)が生じて、心が解放されることもある。
 様々な思い(言葉)が脳に去来するかぎり、思い(言葉)によって、それを受け止めたり、時には上手に交わすことが、どうしても必要になる。何よりも、言葉によって認識することで、一歩前に進めることが多い。
 例えば土器作りや、会社の仕事でも決められたことを左から右に流すように何も考えずに没頭している時は、認識以前の世界の中を漂っているようなものだ。ずっと漂い続けられるならば、それはそれで幸福なのかもしれないが、人間というものは、様々な思い(言葉)が脳に去来するようにできている。現実と向き合いたくないために、その思い(言葉)を圧殺したり、見て見ぬふりをしてごまかし続けていると、どこかに皺寄せがでてくる。自分を悩ませる思い(言葉)は、その場を凌ぐだけなら色々な方法があるだろうけれど、根本的な解決のためには、それを超えた認識(言葉)との出会いが必要だと思う。自分の状態を外から包み込むように認識できてはじめて、その状態に自在に出入りすることが可能になる。
 土器作りのように(好きなことをやっている)自己満足の状態や、人に言われたことを右から左に動かしているだけの言語不要の状態は、人間が言語的ストレスを軽減して生きて行くうえで必要なものだが、その彼岸世界に行ったきり戻れなくなってしまうと、世界の現実と自分との関係が切れてしまう。自分の知ったことではない、というモードになる。人間を此岸に引き戻すのは、言葉の力だ。この力が弱まると、人間は、彼岸に行きっぱなしになってしまう。
 彼岸と此岸を行き来しながら生きて行くことが人間であり、彼岸に行きっぱなしにならないように、此岸に閉じ込められてしまわないように、バランスが必要だろうが、言葉なくして、それはできない。
 彼岸には彼岸の楽しみがあるが、此岸の懐の深い楽しみ方をつくりあげたことが、人間ならではの知恵だと思う。それは、新たに気付き、そのたびに世界を発見し、自分の視点も変わっていくということだ。
 そうした変化は、短期間だと明確に感じ取れない微弱なものだが、3年とか5年、さらに10年という単位になると、明らかな電位差が自分の中に生じていることがわかる。時間を経て自分の中に電位差が生じ、世界に対するポテンシャルがアップしていると認識さえできれば、たとえ宙ぶらりんの状態でも、心強くいられる。現実逃避をする必要もないし、思考停止によって自分を麻痺させなくてもすむし、長いものに捲かれるという発想にならなくてすむのではないかと思う。