縄文”風”土器づくりと、人間の不思議!?


 
 
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 ↑最新作。高さ23センチ。まだ縄文人のように「野焼き」をしていない粘土の状態。8月中に野焼きに挑戦!
  隣は、八ヶ岳山麓の尖石遺跡で発掘された女神像。宇宙人みたい。(クリックすると大きくなります)







 6月に生まれて初めて縄文風土器づくりを体験してから、毎週一つずつ作って、これまでに7つ作った。
 土いじりに没頭している数時間は、頭の中が空っぽになる。ちょっと身体がだるいなあと感じる時でも、土いじりをしているうちに、”だるい”という感覚も忘れてしまう。
 6つ目の土器を作る時、いつものように丁寧に積み上げていく方法ではなく、早く終わらせようと少し手を抜いた方法でやってみた。家でいうなら、ツーバイフォー建築のように壁を最初に作って、それを組み合わせようとしたのだ。しかし、結果は無惨だった。全体が歪んでしまい、それを修正しようとすればするほど、ますます形は歪になってしまい、そうなってしまうと気持ちは焦り、リズムも崩れ、散々なものになってしまった。
 紐状の粘土を押しつぶすように根気よく積み上げていくのが、結果的に、澱みがなく、最速であることがわかった。
 また、形を整えていくのに悩みが生じて時間が経ってしまうと、粘土が乾いてしまい、装飾じずらくなり、さらによけいな時間がかかってしまう。
 迷いなく素早く形が整えられると、粘土にも充分な湿り気が残り、その後の装飾も短時間でできることがわかった。
 料理でもそうだが、手際がよく、流れがスムーズで、素早くできる人の方が美味しい。時間をかければ良いものができるとは限らない。
 会社の仕事でも、早い人の方が、質が高いことの方が多い。これは、いったいなぜなんだろう。
 もちろん、ツーバイフォー方式の土器作りが無惨に失敗したように、やるべきことを省略した早さというのは、結果に結びつくことはない。
 質の高い早さというのは、全体と部分の関係を同時的に掌握しているからこそ実現できる。部分を作り込みながら、同時に全体を掌握しているから、部分を手がけながら次への流れが自然に整えられていく。だから早い。
 遅い仕事というのは、部分をやっている時に、部分だけで精一杯になってしまっている。一つの部分が終わって、新たに次の部分に取りかかる。それを繰り返しながら部分を積み重ねていくのだけど、そのプロセスにおいて全体を掌握しきれていないので、結果的に全体のバランスが悪くなってしまう。
 気をつけなくてはいけないのは、全体を掌握するというのは、全体の完成図があらかじめ準備されているのと違うことだ。全体の完成図を意識しすぎて仕事をすると、そちらの方に意識が行ってしまい、手元に意識が充分に行き届かなくなる。だから、全体の完成図は無意識のなかに放り込んでおく必要がある。全体を掌握するというのは、自分の懐のなかに、”掴み”のような感覚で、物事が整えられていくべき方向が存在している状態だと思う。
 完成図を見ながら仕事をするのではなく、全体の”流れ”が読めている状態でなければならないのだ。
 土器作りを通して、そういうことを覚えたわけではなく、別の経験から、そのように思う。この感覚は、それぞれ別の方法で、誰しも体得していることだと思う。
 料理する時、語学ができるようになる時、テニスでうまく返球できるようになった時、金槌だったのに、ある日、泳げるようになった時、自転車に乗れるようになった時。
 クロールで泳ぐ際も、右手を出して、左手を出して、バタ足をして、と別々に意識していたら、一つのことをやっている時に、他が疎かになってしまう。
 人間は、個別のことを意識しなくても、同時に全体を連携させることができる。それが、身体で覚えるということだ。
 知識がたくさんあって、お勉強ができても、同時に全体を連携させることができないと、流れがスムーズでなく、美しいものも、美味しいものもできない。
 人間がアウトプットするもので、流れが美しいものは、結果的に形も美しくなる。一つ一つのふるまいに奥行と幅のあるものは、結果的に全体の味わいが深くなる。
 そうした意味での美しさや味わいを実現できていないアウトプットを正当化するために、今日の社会は、知識情報で武装した詭弁が多くなっているが、そういうものが長く続かず人に飽きられてしまうのは、けっきょくのところ、ぎこちない部分の寄せ集めにすぎないからだろう。全体として、流れが美しく、心地よく、奥深く、美味いと感じさせるものは、不思議なことに、人を飽きさせることがない。
 その不思議さこそが、人間の豊かさにつながっているのであり、そのことを示せない表現に、いったい何の意味があるのだろう。人間の歪さを示そうと思えば、バランスの悪い部分の積み重ねを示せばよいのであって、それはそんなに熟練を要さないものだから、既に巷に溢れすぎている。