「お手並み拝見」ではなく、「お互い様」

 選挙が終わり、「自民党に裏切られたから・・・」、「民主党のお手並み拝見・・・」、「有権者の期待に応えられなければ、次なる審判を下す・・・」という声が多く聞かれる。
 しかし、政治とはいったいどういうことなのだろうと、改めて思う。
 まずは、お金の問題。様々な税金という形でお金を集めて、それを適切な所に使用しながら、国の運営費にあてる。そして、法の問題。秩序(規制)と自由のバランスを考慮しながら、妥当な線を決めていく。さらに、安心と安全の問題。何をどうすることが国民の安心と安全のために一番適切かという深慮して判断することの問題。
 どの問題についても、自分のポジションによって必ず意見が分かれる。それぞれのポジションを代表する国会議員が、国会で議論して、適切な線引きを行っていくこと。それが政治だとすると、その線引きを歓迎する人がいれば、そうでない人も生じる。高速道路が無料化されて喜ぶ人もいるだろうが、その結果、たとえば瀬戸内海のフェリー産業は壊滅的な打撃を受けるかもしれない。
 酒税をアルコール度数に合わせて改善するという案は、結果として酒税が安くなるビールの愛好者や、独占的大企業であるビール会社には追い風かもしれない。しかし、戦後、政府が酒税確保のために少量の米から多くの酒を造れる「三倍増醸法」(醸造用アルコールを大量に添加し、糖類などで味をととのえる低コストの悪酔いのする日本酒づくり)を強要し、伝統的酒造を壊滅的打撃に追い込んだが、それに抵抗して伝統的な純米酒づくりを復興させ守ってきた小さな地酒の蔵元や愛好者には大きなダメージになる。何よりも、それらの弱小蔵元が経営破綻に追い込まれると、また一つ”日本ならではのもの”を失っていくことになる。
 西欧を追いかけることが、世界標準であるなどと吹き込まれて日本は走り続けてきたが、西欧は、きちんと「西欧ならではのもの」を残している。自分の足元を見つめ直す場所や物が、残されている。日本は、そういう物事に対して、あまりにも無頓着だ。根っこを失った状態で、人間が果たして前向きに力強く持続的に生きていけるものだろうか。
 物事を決めていくうえで線引きはやむを得ないとしても、その結果生じる「切り捨てられる側」に配慮できることが、成熟した政治ということになるだろう。
 政治が民意を反映するものであるならば、国民にそうした成熟度があるかどうかも大事になる。
 しかし、「お手並み拝見」とか、「我々の期待に応えられなければ次なる審判を下す」という言動からは、そうした成熟は感じられない。民主党が、成熟した政治ができるかどうかということよりも、自分によい結果をもたらすかどうかに注目するということだからだ。そういうスタンスは、先の小泉劇場でも同じだった。でも、そんなに単純に容易に自分に都合よくなっていく政治など、まず無いと考えた方がいいだろう。
 因果は、すぐに直接的にやってくるものよりも、時間をかけて、めぐりめぐって自分のところにやってくるものの方が多いと思う。でも、性急な我々現代人は、なかなかその事実に気付かない。
 そう考えると、「お互い様」という言葉に象徴されるように、かつての日本人は、随分と成熟した社会性を身につけていたのだなあと改めて思う。
 その「お互い様」が、全ての人に向けられるのではなく、自分の特定の利益関係者のなかだけで都合良く使われて「馴れ合い」と化していたのは、日本の伝統と西欧の自己主義を中途半端にミックスさせた結果だろう。
 「お互い様」は、依存ではなく、自分でやるべきことをきちんとやって、それでも足らないことがあるので何かに補完していただくという真面目で謙虚な精神から発している。自分の権利を声高に主張して、「お手並み拝見」などと観客席に座るのではなく、自分で必死のプレーを行い、それでも足りない分を補完していただきたいという祈りがあり、その祈りが通じる対象に対する感謝と喜びを大切にすること。それが、人間としての成熟なのだろうと思う。
 おそらく、酒造りなどの伝統的な産業は、そうした精神に裏打ちされていた筈であり、目先の薄っぺらな効率を優先しすぎて、それらの精神の形姿を役立たずと扱ってきたことが、この国の最大の損失だったのだろうと思う。
 「馴れ合い」でもなく、「論理的切り捨て」でもなく、成熟した「お互い様」の政治ができるかどうか、そのために国民もそうなれるかどうかが、この国の将来を決めていくことのように思う。