「これから起こること」、ではなく、「現在起こりつつあること」

 民主党に投票した人でも、高速道路無料化について、多数の人が反対している。
 先の郵政民営化選挙の時もそうだったが、国民の投票行動は、マニフェストと完全にリンクしていない。
 何かしら気分として変わりたいというのが、ほんとうのところかもしれない。
 もちろん、生活の向上など切実に求めて投票を行っている人もいるだろうが、多数の人は、膠着したシステムに辟易している。社会の表層では”新しさ”を売りにしたものが次々と送り出されて変わっているように見えるが、それらは同じシステムの中から作り出されていることに気付いている。人々は、現象としての新しさではなく、構造的な新しさを潜在的に求めている。古い構造が信頼に値するものだと思わなくなっている。
 前回の選挙でもそうだったが、”政治のプロ”を看板にしても全く通用ぜず、”フレッシュで一生懸命に仕事をしてくれそうな雰囲気の新人”が多く当選した。
 プロだから立派で、アマチュアだからダメ、という発想が、ほとんどなくなっている。
 むしろ、”プロ”は、利害関係に敏感で、「自分に都合の良いことを優先する人」というイメージさえある。政治世界において、このイメージは強烈に作られている。事情に通じている人は、それを利用して自分に優位に物事を進める。だから、その人の近くにいた方が自分も得をする。これまでは、そのように”プロ”周辺に人や情報が集まり、その”プロ”は、それによってさらに力を強めていた。
 これは何も”政治”の世界だけの話はない。メディアにしても同じだ。事情に通じているところに人と情報が集まり、その優位性はますます強まる。
 「政治のことは政治家に任せろ。メディアのことはメディアに任せろ。学問のことは学者に任せろ。素人は口だしするんじゃない!」。そのようにして、特定分野の”専門家”は、自らの権威的構造を確固たるものにしてきた。
 また、彼ら同士で、”専門家”の牙城を確固たるものにするため、協力体制をとってきた。
 メディアは、専門分野に強いという看板を掲げる”先生”を多く用いる。”先生”は、権威的メディア(テレビ、新聞、出版)などへの露出を自らの権威付けに使う。政治は、「記者クラブ」という権威的メディアだけを対象に情報を流し、また逆にそれらから情報を受け取るという関係のなかで、その相手と自分たちだけに絞られた優位性を高める。
 学問にしてもそうだ。権威的集団に所属していなければ、予算も取りにくいし、活動もしづらい。だから人と情報が集まる。その巨大化した権威によって、そこに属さない研究者の説を闇に葬る。そしてメディアは、権威筋を神様のように扱い、媚びて、益々彼らの権威を高めながら、その威光を自らのビジネスに生かそうとする。
 ”古い構造”というのは、一口に言って、そういうことだと私は思っている。
 今年、大手メディアや大手広告代理店が赤字に転落した。昨年の金融危機が原因と言われているが、そんなに単純なことではなく、構造的な問題であることは間違いない。すなわち、”権威化”された専門集団に対する冷めた目が広がってきているのだ。
 権威側は、”自分達にしかできないこと”というイメージを作りあげてきたが、「彼らがやっていることは、実は大したことがない。やろうと思えば、他でもできる程度のことで、本当に困難で素晴らしいことは違うところにある。」という認識が少しずつ浸透してきた。
 そうした人間意識の変容と並行するように、ネット社会が進化し、さらに意識の変容を促進している。
 民主党は、「記者クラブ」の開放だけでなく、これまで一部の企業に独占的に与えられていた放送、通信の電波枠を見直すこともマニフェストに盛り込んでいるが、ネットによる動画や音声の配信は、こうした既存構造のなかでの議論を飛び越えた領域に進んでいく。権威的組織だけに集められた情報・知識が、権威側の尺度によって取捨・選択されて人々に送り届けられるという構造自体が、崩壊していくことになるのだ。そうなると、権威に媚びて近づいていく者も減り、それまでの構造は一挙に崩壊する。
 権威筋は、躍起になって、ネットを中心とした情報・知識の流れは信用に値しないものだと否定してきた。「信用のお墨付きを与えるのは自分達である」という意識構造が変わることが、自らの存在意義の終焉につながるからだ。
 しかし、いくら抵抗しても、その流れは変わることがない。権威筋から与えられた一つの知識・情報を鵜呑みにするのではなく、様々な情報から最適、最善なものを選び出していくという思考と行動を多くの人が次第に身につけていくからだ。そうなったら、権威筋が発信するものも多くの選択肢の一つでしかなくなり、その瞬間、権威は権威だからこそ保ち得た優位を失い、あとは個々の間で実質そのものの闘いになる。
 大手メディアが赤字に転落する原因の最大のものは、広告収入の減少だ。インターネット広告にお金が流れたとか、部数の減少という単純な理由ではない。メディア広告というのは、消費者が権威筋から与えられた一つの知識・情報を鵜呑みにするという構造のなかで、高額の値が付けられていた。知識・情報が相対化されてしまうと、広告がまったく無価値ということではないが、対費用効果として、これまでのように高額の広告費を払う意味がない、ということになってしまい、その分、メディア産業は莫大な収益を失ってしまう。
 権威というのは、実態よりも嵩上げされた価値を所有している。権威を失って実態になった瞬間、メディアや政治家に限らず、人が離れていってしまうことは世間ではよくある。
 従来の権威構造の崩壊が、政治、経済、メディアの分野であからさまになってきているが、古い権威構造の根がもっとも深く、見えにくいところで社会に大きな影響を与えると私が思っているのは、学問の世界だ。
 政治やメディアの権威的構造も、実は、「学問の世界」の権威的構造の中にあると私は思っている。
 「学問の世界」が、この時代の文体というか、スタイルを決めている。
 現在の社会活動は、「言葉」が牛耳っている。桜が雑草よりも美しいかどうか、本当は人それぞれかもしれないが、「桜は美しい」という言葉が多くの人間を支配し、行動に駆り立てている。つまり、その時代の価値の枠組み、物の捉え方、思考や行動の根拠は、「言葉」によって決められ、その「言葉」が人間を動かしているのだ。一瞬、一瞬の動きにおいては、感性が決めていることが多いが、たとえば人生の節目であるとか、大きな行動のポイントにおいては、どうしても「言葉による納得」が、大事になる。
 たとえば進路を決める時など、「なぜ自分は、この道を行くんだろう、どう動けばいいだろう・・・、果たしてそれでいいんだろうか」と、言葉であれこれ考える。
 言葉だから、学問に限らず文学でもいいのだが、私が「学問の世界が、この時代のスタイルを決めている」というのは、この時代においては、学問の方が文学よりも権威的な力があり、社会的な権威機関に対する影響力が強く、それらの権威機関が時代の価値観を牛耳っているからなのだ。官僚や政治家は、文学作品よりも、論文によって、方針を決めるだろう。組織の多くの決裁がそうだし、個人においても、文学によって進路を変えてしまう人は、論によって変える人に比べて、圧倒的に少ない。
 文学が学問に比べて力が弱いなどと私はまったく思っていないが、現在の社会構造が、そうなっており、学問の世界こそが、そうした構造を盤石にした張本人なのだ。
 政治やメディアが変わるだけで、学問の世界が変わらなければ、人間は宙ぶらりんになる。現実生活の構造が変わっても、これまでの思考が変わらなければ、生きる指針を見失ってしまう。高度経済成長の時代のように、現実生活の構造と個人の意識が一致している方が、悩むことなく人生を突き進むことができる。
 現在、政治も経済も激変し、10年、20年後の社会がまったく別のものになることが予感出来ても、現時点での一流大学を出て、現時点での一流企業に就職しておこうという考えの人は、相変わらず多くいるだろう。それがベストだと心の底から信じていれば、まだいいのだが、心の中で不安を感じながらも、それを選択するということが多く行われているだろう。また、何がどうなるかわからない社会に直接身を晒すことよりも、現時点では比較的安泰に見える大学の権威構造のなかに隠れようとする人もいるだろう。
 経済や政治が変わっても、いかに生きていくべきかという新しい「言葉」がないと、人間は、宙をさまよい、不安定になる。不安を抱えたまま、従来のシステムにしがみつこうとする人が多数であり、果敢に新しいことに挑戦できる人は、ごく稀だ。
 そうした状況に応えていく「言葉」は、単純明快な一つの答えではなく、複合的なものだろうと思う。もしかしたら、現在の学問全体の新たな統合から導き出される”歴史的な言葉”かもしれない。
 それは決して抽象的なことではなく、たとえば「リナックスのソフトは、●●の理由で信用に値しない」と既得権組みが抵抗の論を張っていたのに対して、事実として信用に値するということになり、「リナックスのソフトは、●●の理由で、むしろ信用に値する」という論が導かれ、既得権組の論よりも多くの支持を受け、新たな行動原理になっていくようなことだ。
 今後、中小企業の参入の可能性が高い電気自動車においても同じようなことがおこると思う。「安全性を考えたら、大会社の方が安心」という論を超える論が、いつか生まれ、それが当たり前になる。
 けっきょく、多くの人間の不安心理は、論によって左右されてしまう。
 だから、進学競争の害を声高に訴えても、人生を不安にさせる論が強い力を持っているかぎり、進学競争はなくならない。
 巨大メディアを中心にした”格差”のアピールによって不安を煽られ、「上に行けば人生は有利、下に行けば人生は悲惨」という従来の権威構造の価値観を、知識情報として連日のように受信させられていると、そこから意識を解き放つことは難しい。
 現在の大学は、「知識」とか「情報」を集積しているが、新しい価値観の作り手にはなっていないし、真剣になろうともしていない。大学の変革がいろいろ言われているが、現実社会の価値観に合わせて(少子化問題も含む)作りかえていくという意識にすぎない。つまりそれは実際の社会の後を追うということだ。医療で言えば対症療法であり、病気の根元を治す学問になっていない。
 多くの学者は、自らにその義務はないと考え、自分の関心のあることだけやらせてもらえればいいと考えているだろう。というより、もしも対症療法ではなく病気の根元を治す学問が現れれば、その人たちの「従来の価値観のなかでの研究」の存在意義は一挙になくなるのだ。現在の大学の存在意義も変わる。そして、進学や就職に関する考え方と行動も、きっと変わる。人の意識や行動と、進学や就職のあり方は、相互的に、変わっていく。
 今回の民主党政権への移行は、政治的な変化だけではなく、経済構造や人間の意識構造の変化とつながっているのは間違いないのだが、その先に来るものの姿形を、どう捉えていくかが大事なことだろうと思う。単純に政府の「経済政策」や「社会保障」だけを見ていてはダメなんだろうと思う。
 インターネット、ブログ、ミクシィ、ユーチューブ、twitterなどは、変化というよりも同じ時代の大きな波だ。その波を受ける政治も経済構造もまた波だ。それらの波の増幅によって引き起こされる人間意識の変容こそが、本当の変化であり、その変容した意識そのものが、次なる時代精神だ。その時代精神が、新たな社会を作りあげていく。じわじわと広がり、臨界点に達した時点で、いろいろなことがガラリと変わる。その新しい社会と、その意識を支える言葉(表現)の登場は、これから起こるのではなく、現在、起こりつつある。そのささやかな萌芽に注意深くありたいと思う。現代社会の状況をなぞるだけや、その矛盾や歪みを提示する大仰な表現は、もう完全に時代遅れだと思う。