エネルギーと場

風の旅人 第38号(10/1発行)の見本誌ができた。テーマは、彼岸と此岸? 時の肖像。今回から表紙が変わる。

これまでのテーマ、「永遠の現在」からずっと時間に対する概念が世界観や人生観に大きく関わっていているという意識を持ち続けて編集している。

けっきょく、生と死の問題も「時間」を抜きにすることはできない。私たちは、自分の外に「時間」を設定する癖がついてしまっている。だから、「世界」もまた自分の外にあると設定し、外からたくさんのことをインプットしなければ人生を棒に振ると焦っている。

意識的にインプットできるのは些細な事で、私たちは、無我夢中に生きているだけで無意識のうちに世界から様々なことをインプットしている。だから、自分の内側とじっくりと向き合った方が自分でも気付かなかった広く深い世界と出会える可能性がある。

知識情報に囚われて自分の実感を知識よりも下に置いてしまうと、それだけで世界との関わりの大半を失ってしまう気がする。知識というのは、他の誰かが構築した城みたいなもので、その城の中にいると安心して生きていけると洗脳されてしまい、城の外に豊饒な大地が広がっていて、そこで生き生きとした営みが行われていることを知らずに過ごしてしまうということもあるだろう。

 とはいえ、知識情報の城を出て自分の感覚を頼りに歩いていくためには、訓練がいる。訓練によって、そうしたセンスを身につけることが先決だ。ある日、突然、自分の中の回路を変えることなどできない。

 城の内と外のどちらか一方ということではなく、自在に行ったり来たりできる柔軟なセンスは必要だ。そのセンスは、「行動しながら考える」ということの上にしか身につかないことのように思う。

 自分の頭の中に用意されている知識や情報だけで考えられることなど、たかがしれている。とりわけ、これだけ変化の激しい時代において、知識や情報は現象の後追いにすぎないものが多い。だから動きながら何かを察知し、それを情報と照合しながら思考していくスタンスが必要だ。

 編集の仕事などもそうで、作る前にあれこれ考えても狭い範疇のことしか思いつかないし、そこで固定した枠組みを作ってしまうと、出来上がるものも狭く閉じたものになってしまう。

 まったく方向性が無いと動くことすらできないので、方向性だけは冷静に狙い定めて、かといって狭すぎる道にせずに比較的余裕のある道幅で歩いていきながらアンテナを張り、その道で出会うもの、自分が感応するものを拾い集めていく。拾い集めている時は、なぜ自分がそうしているかわからなくてもいい。しばらく経って自分が拾い集めたものを眼前に並べ、それらと向き合っていると、自分が何をしようとしているのか浮かびあがってきて、ようやく自分で気付くという状態になる。その輪郭さえ見えてくれば、後はそれをより明確にしていく動き方をしていく。明確になりすぎて固定化してしまうのを嫌う自分がいるので、緩さは保ちながらも、全体のつながりや緊迫感が損なわれないように注意深く整えていく。

 そのようにして初めて、動く前は自分でも意識できていなかった「場」が立ち上がってくる。

 生きていくうえで欲しいものは、もはや自己完結的な「物」ではなく、世界とつながっていける「場」。「場」のなかでこそ、「物」は、他の「物」と響き合い、呼応し合い、“いのち”を帯び、新たな表情を見せる。

 「風の旅人」の誌面の中に入ることで、一つ一つの写真や文章が死んでしまうか、生きてくるのか、それこそが編集という仕事における要なのだと思う。

 多くの人々が、「物」ではなく「場」を求めて浮遊している。かつての掲示板からミクシィtwitterへと改良されてきたインターネット上のコミュニケーションサイトに集うことも、同じ理由からだろう。

 しかし、その「場」が、ただの情報交換にすぎなかったり、架空のつながりの人数だけが目的化されてしまい、自分の“いのち”を活性化するものでなくなった時、すぐに飽きてしまうだろう。

 “いのち”というのは、いったい何なのか。

 それは、生きるためのエネルギーだけど、教科書的に教えられているような、自分の内側にあるものではないと思う。太陽の中心で核融合が行われて莫大なエネルギーが作り出されて外に放出されているというイメージが浸透しているために、自分のエネルギーも、自分の内側で作り出されているかのように現代人は錯覚している。エネルギーが足らなくなったら栄養補給をして内面を燃やして活性化させるという発想だ。

 しかし、おそらく実際はそうではなく、エネルギーは、常に外側からやってきている。そのエネルギーをより多くキャッチできる「場」にいると、自然と自分も活性化する。「場」が人を作る。社内の空気が澱んでいる職場で長く働いていると自分も澱んでしまうことは自然現象なのだ。そうした場に外部から一人でも活発なエネルギーを放出する人が入ってくると、空気は俄に変化し、連鎖して「場」が活気を帯びていくということも起こる。

 私は、自分が日頃感じているエネルギーの流れというものが、今日の支配的な学説では、どうしても納得できない。

 「風の旅人」の第38号では、電気の宇宙論の本丸である「太陽」を取り上げている。「太陽」に対する認識が変われば、おそらく、社会における様々な認識も変わってくるのではないかと思う。