新たな感覚と、古い認識

先週末、銀座一丁目のギャラリー小柳で行われている杉本博司の新作、放電場の写真展を見に行った。(10/10まで→http://www.tokyoartbeat.com/event/2009/655E

 現在、「風の旅人」で連載中の「電気の宇宙論」と呼応するところが多く、とても驚いた。このシリーズは、2006年くらいから発表され、初期の段階では空中放電による華々しい放電現象が捉えられていた。私が驚いたのは、現在、ギャラリーで展示されている最新作のシリーズだ。これらは、今年になって行われた水中放電によるものらしい。

塩水が、放電によって帯電し、造形化している。その状態が、まるで動物の毛皮のようだ。もしかしたら、ダニとか蚤の皮膚表面も、こんな感じかもしれない。見方によっては、樹木の樹脂のようにも見えるし、地上の光景を空高くから俯瞰した場合も、同じかもしれない。

 ホームページの画像では小さすぎてよくわからない。放電の火花に続く白く靄になった部分がそうなのだが、この部分を拡大すると、上に述べたような不思議な造形となっているのだ。

 杉本の写真のなかの塩水は、まるで宇宙の摂理に従うかのように電気によって造形化されるが、その電気は、塩の中に留まり続けるのではなく、そのあいだから、再びスパークしている。

 私達の身体も、海も、塩水に満たされている。放電と塩水との関係は、地上の造形物の生成と働きにおいて、何かしら重要な役割を果たしている。

 

 近年、科学技術が急速に発達して、人間の目や耳の変わりとなるものが、これまで人間が認識できなかった領域へと進出している。そうした力によって得られた新たな感覚は、従来の人間の認識を大きく変容させる力を持っている。従来の概念で固められた言語で説明するよりも、まずはその新たな感覚に身を任せることが大事なのだろう。

 古い概念の枠組みの中の言語は、せっかくの新たな感覚を、古い意識のなかで片づけてしまう欠点がある。

 昨年、日本の宇宙航空研究開発機構の月周回衛星「かぐや」の鮮明な月写真が話題になった。

 この「かぐや」で観測された月面クレーターの中央にある小高い丘。この驚くべき丘を、研究者達は、隕石が落ちた時の衝撃で地下4キロ〜30キロが掘り起こされ、その岩石が飛び出したものだと古い概念で決めつけている。月面上に散在するクレーターにある小高い丘が、全て純度98%以上の斜長岩(カルシウムやアルミニウムを多く含み、融点が高くて軽いため、溶岩が冷えて固まる際、最初に析出する鉱物)であることが判明したため、研究者達は、月の中も斜長岩で構成されていると決めつけた。すなわち、かつて月全体は、どろどろに溶けた溶岩の海であったと報告しているのだ。

 しかし、その報告の前提になっているのは、小高い丘が地下から噴出したという想定だ。

 小高い丘が、地下から噴き出したものではなく、空中からの放電で削られて高熱で溶かされても、小高い丘は高純度の斜長岩になるだろう。その場合、小高い丘が斜長岩だからといって地下も同じということにならない。

 今後、研究者達がさらなる研究を進めて月面の別地点の岩石を掘り起こしていくと、おそらく高純度の斜長岩でないところが出てくる可能性がある。アポロ計画で採取された岩石試料を分析しても、斜長岩は90%程度と考えられていた。無数のクレーターが散在する地表でも、90%程度だとすると、その下は、もっと少ない可能性だってある。

彗星が氷でできていると決めつけながら、観測によって、氷でない彗星ばかりが発見されても、定説を守ろうとする研究者たちは、それらを、“例外的な現象”だと決めつけ、それがそうなってしまった個別の特殊な原因を調査すると言い逃れする。

 定説そのものを疑わなければ、新たな事実と感覚に応じることができないのだが、いったん言葉で固定された認識(定説)を、なかなか変えられないのも人間の性なのだ。