出会いの不思議(続)





私が大学に入学をしたのは1980年。この世代は、シラケ世代といわれ、田中康夫が、ブランド名をくどくどと書き連ねた「なんとなくクリスタル」が大流行した。

 私より10年前に生まれた大学闘争の人達は、社会のことや、人生のことを熱く語り合うことが当たり前だっただろうが、私の時代は、そういうこととは距離を置いて、刹那的に、今を楽しく生きるというムードが広がりつつあり、大学生のあいだで、スキーやテニスが大流行した。時代は、バブルに向かって、盲目的に熱狂し始めていたのだ。

 そういう流れから距離を置いている人も当時の大学の様々な場所に潜んでいたと思うのだが、現在のようにインターネットもなく、サークルなど具体的に存在する場所で人と接し、そこでつながっていくしかなかったのだ。

 同じ時代の、同じ大学構内にいた人で、大学の雰囲気になじめず、中退したり海外放浪に出かけた人と社会人になってから出会い、なんだ、あの時あの場所にいたのかと親しくなった人が何人かいる。

 私は、茨城県のド田舎に建設された異様な大学空間の寮に住んでいた。あの頃、あの場所で、拗ねた目で周りを見ていた者は、だいたい同じような記憶を共有している。

 ただ残念ながら、大学にいる時に、彼らとは出会うことができなかった。もし出会うことができていれば、大学生活をもっと楽しく過ごせたかもしれず、中退などしなかったかもしれない。

 インターネットの弊害については、有識者がいろいろ好き勝手なことを述べているが、私のように、集団の雰囲気に溶け込めない少数派が孤立してしまわず、出会うべくして出会える相手を発見できるツールとしては、とても有効だろう。日常的に活動する場で、そういう相手を見つけ出すのは、とても難しいことだから。

 しかし、めったにないことだが、インターネットのない世界でも、ごく稀に、自分の日々の活動範囲のなかで奇跡的に出会いが実現することもある。奇跡的な出会いというのは、単純に気が合うとか、一緒にいて楽しいとかの次元を超えたもの。生きていくうえで誰もが持っている頼りないベクトルのラインが、相手のラインと捩り合って、より太く強固なフィラメント状態になる瞬間なのだ。実感のある言葉で言うならば、「勇気づけられる」とか、「自分も頑張っていこうという気持ちになる」とか「触発される」とか。それは、その人と一緒にいて安心ということではなく、そういう出会いが必ずあるものだと知ることで、独りで生きていくことの覚悟ができる感覚なのだ。

 だから、その種の出会いは、一瞬の電光石火のようなものでかまわない。一瞬が、自分のなかでは永遠になる。

 20歳の頃の私は、大学内の集団的喧騒状態に辟易していた。適当に話を合わせて、あとは盛り上がろうぜ!みたいな雰囲気の集合から抜け出して、国内を彷徨っていた。その途中、会津ユースホステルで出会った25歳の人に触発され、海外に出ることを決意していた。その人の名前は覚えていないけれど、三人だけが宿泊していたユースホステルで、遅くまで語り合ったことは鮮明に憶えている。

 孤独だったからこそ、そういう一つ一つの出会いが、深く記憶に刻まれている。

 今回、Twitter経由で27年ぶりにつながった松井君との、たった一日の出会いも、同じだ。

 その時、私達は、日通の引っ越しのアルバイトをしていた。その引っ越しは、毎日、数多くの現場があった。何日かアルバイトに通っていたある日のこと、自分の持ち場の引っ越しが終わった後に、別の現場のトラックがバイトをピックアップするためにやってきて、その荷台に乗りこみ、そこで松井君と出会った(のだと思う)。

 何をきっかけにして話をはじめたのか憶えていない。松井君がTwitterに書いているのを見れば、トラックの荷台に乗って事務所に戻るまでの短い時間に、何か互いに感じ合うものがあって話が始まったらしい。どちらが誘ったのかも忘れたけれど、事務所で私服に着替えた後、神戸の喫茶店で長い間、話し込んだ。

 当時、日通のバイトはたくさんいたが、私は他の誰とも気が合わず、バイトの後、一緒に時間を過ごしたのは彼だけだった。飲みにいかずに、喫茶店に行ったのは、旅の資金を必死に貯めていたからだと思う。

 それにしても、一瞬にして感じ合う力というのは、いったい何からくるのだろうと思う。たった一日の出会いの後、お互いにまったくべつべつの道を歩いてきたのだが、現在、彼が行っている表現や世界観を見ると、私のものと同じではないのだけれど、何か響き合うものを感じる。http://idream.exblog.jp/i7/

 つまり、人の潜在意識は同じものを求めているのではなく、自分の中に欠けている何かを補いたいと欲していて、そいつが強力なアンテナになっているのではないかと思うのだ。

 もちろん、人は自分と同じものも欲し、同じものと接することで安心を得る。しかし、そういう感覚は、安心して満たされて、その後の展開が見えない。それに比べて、自分の欠けているものを求める衝動は、ひたすら続く。

 自分のなかで欠けている部分こそ、意識しようがしまいが、常に気になり続けている領域である。

 私が、当時の松井君に感じたものが一体なんだったのか、それはわからない。ただ、私は、彼といろいろ語り合いながらも自分が根なし草であることを強く自覚していたと思う。世間の流れから一歩置いたところで生きていることは彼と同じだったが、彼には“音楽”があった。私は、私にいったい何があるのかを探し求めて、旅をし続ける必要があった。私が当時一番欲していたものは、自分が何者かであることを自分で証明するためのものだった。それゆえ世間がお墨付きを与えてくれるものは、むしろそれを見えにくくすると危機感を感じた。だから自分をドロップアウトに追い込んだ。そのことは今もよく覚えている。

 裸になって荒野を彷徨うこと。そこにしか自分の道は見出せないと、私は必死の思いだった。松井君が、音楽を選択し、それを続けていくこともまた荒野を歩くこと。その部分で2人は共通していたが、私に欠けているものは、荒野を歩いていくための心の拠り所だった。だから、彼が語る“音楽”を、20歳の私は、羨望しただろうと思う。でも、彼もまた、私と同じように荒野を歩いていく覚悟を持っていると感じたから、その羨望は妬みにならなかった。

 海外を放浪している最中、一度か二度、私は彼にハガキを送ったらしい。おそらく、10のうち9の時間はネガティブな気分に侵されていたとしても、たまに訪れる気分が晴れやかなポジティブな自分を、彼に伝えたのだろうと思う。そのようにしなければ、自分を前に進ませることができない時って、あるものだから。