「風の旅人」公開トーク 〜表現の行先〜を終えて。

 

昨日、「風の旅人」公開トーク、「表現の行先」を、無事に終えることができた。

 140名の人達が狭い所に集まり、3時間を超える長丁場に関わらず集中を切らすことなく最後まで付き合っていただき、有難うございました。

今回は、細江英公さん、森永純さん、田口ランディさんといった、ただならぬ人達にご登場いただき、さらに中藤毅彦くん、有元伸也くんという、これからの時代を担っていく写真家をくわえて、「表現の行先」という、とても抽象的で深遠なテーマを掘り下げていこうと思ったので、進行役として話を整えていくのが難しかった。

時間の配分とかに気を使い、話が大きく脱線してしまわないように注意し、といって小さくまとまってしまうと面白くない。などと一人で色々思案すると、どうしても気持ちの余裕がなくなってしまう。今回は、幸いにも田口ランディという心強い助っ人がいて、トークの趣旨を深く理解したうえ、要所要所で極めて有効な言葉を差しはさんでくれ、全体を揺さぶりながら緊迫感のある統合を目指す波を作ってくれた。

進行役も含めて6人もの人間が舞台にあがると、それぞれが自分の領域だけ語って、それぞれの言葉が響き合わずに終わってしまうということがよくある。

”場“というのは一度限りの体験である。その場で発せられた言葉を幾つかメモして、分析することが目的なら、本を読んだ方がいい。私としては、「その時間、その場所にいることができて、本当によかった」という体感を生じさせる力こそが”場の力“だと思う。

単純に役に立つ情報を得るのではなく、空気を体験することで、脳と全身がシャワーを浴びたような感覚。

凄い人というのは、その人がいる空間を共有するだけで、脳内シャワーを浴びたような感覚になるものであって、その力を減退させるようなことだけは、ぜったいにやってはないらない。私が雑誌づくりにおいて神経を使っているのも、その一点に尽きる。

細江英公さんと森永純さんというのは、根本のところでは同じものを持っているのだが、その表出の仕方が全てにおいてまったく正反対であり、この二人のコントラストを傍で見るだけでも、人間存在の奥行きとか幅を強烈に感じる。

「わが道を行く」という言葉は、言うだけなら簡単に言えるが、それを70歳の後半になっても現役で貫きとおし、さらにエネルギーに満ち溢れ、かつ他者を慮ることのできる懐の大きさを持っている人は、稀有だ。

そういう人達のオーラを傍で感じられただけでも、幸福な時間だったと思う。 

また、イベントというのは、発信者側だけでなく、受信者側が発するオーラの影響も受ける。発信する側も人間であり、受信する側が作り出す空気に無意識のうちに影響を受けるものなのだ。とりわけ表現者たちは、自分が発信するものが受信者とどう呼応しているかについて、とても敏感なところがある。受信者側からオーラがはねかえってくることで、さらにポテンシャルがあがる。また逆に、相手を拒絶したり斜めに見るような負のオーラを発散している人と向き合うと、とたんに自分の中の電圧も下がってしまう。

もちろん、細江さんや森永さんの境地になれば、他者の反応の影響をマイナスに受けることはないが、そういう人達は、プラスの電力ならば強力な磁力でガンガン吸収し、テンションはどんどん高くなるのだ。

今回のトークは、3時間半のあいだ、途中で帰る人は一人もいなかった。このような聞き手の集中力と前向きの熱気は、敏感に伝わってくる。

森永さんが、原爆体験のことを自らの言葉で語り出したことに私は驚いた。

ドブ河と波という、シンプル極まりない被写体と、永遠の時間とも言える時空間のなかで向き合ってきた森永さんの核の部分が、その一瞬だけ放たれて宙に消えた。書き言葉ではなく、語り言葉が生命を吹き込む公開トークにおける、かけがえのない瞬間だ。

「表現の行先」というテーマを掲げていた以上、このトークを通じて目指していたところはある。

それは、いみじくもトークの最後に聴き手側から発せられた質問が、象徴している。

撮ろうとして撮るのではなく、撮れてしまう写真。書こうと意図して書く文章ではなく書けてしまう文章。小賢しい人間の理性分別の範疇で表現をコントロールするのではなく、表現者当人にとっても一つの啓示であるかのように、自らの存在を問われるように、自ずから表出する表現。そのうえで、社会および他者に開かれている表現。

自分の知識や技術を披露したり、大衆受けを狙うような、わざとらしい作為表現の残骸が氾濫する現在において、こんがらがってほどけなくなった意味の結び目を、丁寧に解きほどいて、本来あるべき状態に結び直そうとする意思と気合いと根気のある表現。

それを、当人は、無意識に成し遂げてしまう表現。

そういう表現を生みだすために、日頃どういうことに配慮すべきか、という質問が最後に投げかけられた。

その問いに対する一つの正しい答えを出すことが今回のトークの目的ではなく、重層に積み重なった言葉の中から、一人ひとりが、この時代に生きる個人として、どういうことが大切なのか嗅ぎ分け、それを自分流に消化していくこと。そのきっかけになるかもしれない場を大切にすること。安易な答に頼ることなく、自分のアンテナの精度アップをしていくこと。そうしていこうという前向きな気持ちが少しでも芽生えたならば、それで充分。表現の行先は、評論家の客観的分析のなかに正しい答があるのではなく、一人ひとりの心のなかに生じる、ある種のベクトルのなかに少しずつ準備されていくものだろうと思う。