自分を入れ替えていく旅。1/31に公開トークを行います。


 

1/31(日) 18:00から、青山ブックセンターで、私が期待している若手写真家の鷲尾和彦君と、公開の場で対話を行います。トークショーのテーマは、『新しい”旅”の写真とは』ということになっています。


【イベントタイトル】

鷲尾和彦写真集「極東ホテル」刊行記念スライドショー& トークショー

鷲尾和彦×大竹昭子×佐伯剛

『新しい”旅”の写真とは』



2009年1月31日(日) 1830203018時開場)

■会場:青山ブックセンター本店

■入場料:500

■電話予約&お問い合わせ電話: 青山ブックセンター本店・03-5485-5511










 鷲尾君の写真は、風の旅人の2737で紹介しているが、誌面で写真を紹介するだけでなく、写真表現の在り方について何度か個人的に語り合っている仲です。

 写真表現を志している人のなかには、「言葉にできないから写真を撮る」などと、格好をつけて言い放つ人が多いけれど、鷲尾君は、自分の言葉を持っている写真家だ。

 私は、表現というものは、言葉をなぞるものではないけれど、自分の中の言葉のベクトルの延長線上にあるものだと思っている。表現する瞬間に言葉(文字としての)がなくても、それまでの人生において、自分の言葉をどのように耕してきているかが、表現に顕現化する。

 自分と世界(他者)との関係において、一つひとつの体験を通して試行錯誤を深めている人は、世間で流通している標準的な言葉ではない自分の言葉を持っている。そうしたスタンスの積み重ねが、写真における被写体の選択や向き合い方などに反映され、結果的に、作品世界に影響を及ぼすのは当然だろう。

 鷲尾君と私の考え方で共通しているポイントは、“旅”というものの捉え方だ。

 彼は、このたび出版される写真集の『極東ホテル』において、東京のかつて「山谷」と呼ばれたエリアに建つ外国人旅行者専用の簡易宿へやってくるバックパッカーたちを約5年かけて撮影したものを発表している。

 そこに写し出されているのは、旅行説明会のスライドのような旅写真ではない。異国を彷徨う旅人の醸し出す気配を通して、旅というものの本質を浮かび上がらせている。

 ホテルの一室で宙を眺めながら、何かを待ち続けているかのような遠い眼差しを持つ旅人。

旅というのは、自ら動き続けることであるけれど、同時に、未来からやってくる出会いを待ち続ける行為でもある。そうした期待のない旅など、存在しないだろう。

 あらかじめわかっていることをなぞるのではなく、また自分が何を求めているか明確に意識していることではなく、といってダラダラと何でも良いというのでもなく、出会った瞬間に初めて、自分がそれを求めていたことに気付ける稀有なる瞬間。旅の喜びの本質は、そういうところにあるのではないかと私は思うし、鷲尾くんもまた、そういう思いを持って、写真表現に取り組んでいるのではないか。

 すなわち、そういうスタンスが旅だとすると、写真表現もまた、一種の“旅”ということになる。

 見知らぬ土地を旅行しても、また見知らぬ人や風景を撮影したとしても、自分の眼差しが変るような出会いが伴わなければ、それは旅とは言い難いと、私は思う。

 ならば、移動せずに同じ場所にいても、惰性に陥らずに物事をみつめ、新たな発見と触発を通して、自分を入れ替えていくことは、旅だ。

 誰でも簡単に海外旅行ができるようになった現代において、ガイドブックに書かれていることをなぞるだけの旅行も多い。また、表現その他の分野においても、ガイドブック的なマニュアル本が溢れ、他人がつくった価値観の枠組みの中でわかったつもりになることも多い。しかし、そうした時間をいたずらに積み重ねても、あれこれ迷うこともないとすれば、自分の眼差しも変ることはないだろう。

 もはや、旅というのは、地理上の移動や、人が作った言葉の中を次々とお勉強するスタンスではなく、自分の眼差しで物事をみつめ、自分なりの世界の付き合い方を、身をもって掴み取っていくプロセスのことだろうと思う。

 同じ場所にいても、意識が変り、視点が変るだけで、世界も変る。鷲尾君は、現在、湘南に移り住み、自分の周辺の人々の営みを丁寧に撮影し続けている。

 地球上のどこであっても、人間の営みには、それが成立していることじたいの奇蹟を強く感じさせる尊い瞬間がある。そうしたものに出会う時、人間という存在のかけがえのなさを感じるとともに、自分が信じ込んでいる価値観の偏狭さに気づかされることがある。そのように自分の価値観を揺さぶられることは、心が蘇生するような快感があり、まさに旅体験そのものと言える。

 しかし、人間の営みの尊さは、それをごく普通のこととして繰り返している当事者には気づきにくいし、通りすがりの人も見落としがちだ。そこに住みついたり、何度も訪れたりしながら時間を共有することで、初めて見えてくるものは多い。

 鷲尾君の写真表現のエッセンスはそこにある。彼は、大きな出来事や目新しいものを撮っているわけではなく、といって、日常を見飽きた視点でダラダラと撮っているわけでもない。彼が撮った人間の日常の何気ない一瞬が清新に感じられるのは、そこに彼の“旅”の視点が息づいているからだろう。

 “旅”の視点を息づかせるためには、単純にあちらこちらを訪れればよいものではなく、常に自分の中を入れ替えていくという、これまでの自分の経歴や実績に寄りかからないスタンスも必要であり、それは誰にでも簡単にできることではない。