アートと娯楽









 昨夜は、六本木アートナイトということで、夜遅くまで六本木周辺に人が溢れ、「アートラウンジ」とか、「アートバー」とか、なんでもかんでも「アート」の名をかぶせて、それぞれが存在意義を発揮しようとしていた。

 そんななかで、六本木ヒルズのすぐ傍の地下一階スペース「スーパーデラックス」にて、午後6時から明朝の4時まで「いのちの興」と題してイベントを行った。午後11時頃までは「風の旅人」の企画、それ以降は「MAGIC ROOM???」の企画で。この一日、六本木ヒルズ周辺を見て回ったりスーパーデラックスで自ら行ったイベントを通じて、様々な表現の落差を目の辺りにし、表現というものをどう捉えていくかということについて深く考えるきっかけとなった。

 アートは、作る人や見る人の解釈でかまわない、という言い方が広く流布しているが、こうした言い方を素直に受け入れられない自分がいる。

 多様性という言葉が市民権を得てから、多様という名の画一や標準がはびこっているように思われてならないからだ。つまり、形として多様であっても質としては画一。たとえは悪いが、最近の温泉宿では、海でも山でも同じように刺身とか簡易鍋とか品数がズラリと並び、あれこれ口に放り込んでも、個々の記憶がまるで残らないことがある。

 それに対して、鯖という魚一つとっても、同じ鯖だとは思えないほど鮮烈な記憶が刻み込まれる鯖がある。私の場合、屋久島で食べたクビ折れ鯖とか、国東半島で食べた鯖は、生涯、忘れる事ができないものだ。

 今日の社会で広く流布している「多様性」は、安値競争の温泉旅館の食事のように、品数は多いけれど肉も魚も野菜も特徴がなく、何を食べたのか記憶に残らない「多種類」のことではないか。

 品数は少なくても、絶品のものが一つあれば、その食事の記憶はずっと残る。さらにその絶品の味を共有できる人がいて、お互いに、心の底から「うまいねえ」と思えるような状態は、至福の境地だ。

 大しておいしくないものを数多く並べてサービスする旅館は、お客さんがそれを求めているからと言うが、それは絶品の味のものを用意できないので品数を増やしてごまかす、という類の言い訳のように聞こえる。

 表現世界における“多様性”も、けっきょくこれと同じようなことなのではないか。形ばかりの“多様性”の陰で、“味”という大事なことが疎かにされている。

 味というのは、好きとか嫌いという分別を超えて、それまでの認識を覆すほどの力がある。

 「自分がこれまで食べていた鯖は、いったん何だったんだ!」というほどの。

 そういう驚きとか、ときめきで身体中の血が騒ぐほどの状態を、感動と言うのだろう。感動の力が、人を変える。







 ただ、今日の社会では、どれだけうまい鯖を食べても、その味がわからない状態になっている場合もある。味がわからなくなると、毎日ファーストフードでも平気で、味の違いは質の違いではなく、好みの違いにすぎないと判断するようになる。塩分が濃く、化学調味料をふんだんに使ったものを食べ続けていると味がわからなくなるように、表現に関しても、テレビ情報のように素材そのものの良さは伝えられず、原形をとどめないほど加工されて刺激を強められたものにばかり触れていると、物事の質の判断はできず、好き嫌いだけで判断するようになるのだろう。でも、いったんそういう環境から離れて、加工品や舌に刺激が強いだけのものを避けていると、きっと、ものごとの旨味がわかるようになる。

 昨日の深夜、イベントの休憩時間に六本木ヒルズ周辺を「だるま商店」の島さんと歩きながら、「これらをアートと称するから反発心が生じるけど、縁日の遊技場とか遊園地だと思えば、それはそれでいいんじゃない、みんな楽しそうなんだから」という話になった。遊園地は、浮き世の憂さを晴らして、また浮き世のしがらみに戻るための装置であるだけのこと。アートの力は、それを体験すると、それまで生きていた浮き世が違って見えてしまうので、戻れなくなる可能性がある。



 浮き世と何とか折り合いをつけながらやっていけそうな時は、遊園地で適当にストレス発散しながらバランスよくやっていけばいいが、これまでと同じような感覚で生きていけない状態に陥った時(失業とか倒産とか病とか失恋とか大事な人の死とか)には、遊園地では根本的な力にはならない。そういう時にこそ、本物のアート力がわかる。アートと娯楽の違いは、そういうところにあるように思う。

 アートの力は、毎日必要なものではないが、人生の大事な局面において、とても大事になる。人間は、何かしら危機的な状況に置かれたり、社会のフレームから離れざるを得ない時に、本来の”味覚”が蘇り、その時、アートの力が実感できる。

 何がアートで、何が娯楽かの分別は、安楽に生きているような状態の時は、さほど重要ではないということだろう。