共星の里と、表現について


福岡県朝倉市黒川にある「共星の里」という素晴らしい場所がある。

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100年ほど前に作られた小学校の廃校が決まった時、建物を残して地域活性化のために活用するプランの公募があり、柳和暢さんというアーティストが中心になった案が採用された。今では、旧小学校のゆとりのあるスペースを贅沢に使い、美術や写真の企画展などが行われている。

現在この場所で、友人の写真家の船尾修さんが撮った国東半島の写真「カミサマ、ホトケサマ」の展覧会が行われており、先週末、作家の田口ランディさんとともにトークに参加してきた。

この場所は、周辺を山に囲まれて遠方の都市の光が遮られるため、夜になると真っ暗闇になり、満天の星が見られる。

また、かつて教室であった部屋の大きな窓から眺める風景は素晴らしく、風の流れや光の差し込み具合なども快適で、昔の人が、どれだけ子供のことを大切に考えていたかが伝わってくる。

この場所で、のんびりと過ごすだけで心身とも浄化される。また、心身が開かれた状態になり、ここに集まってくる人達と、深く対話することもできる。

また都会のギャラリーと違い、外の風景と一体化した空間なので、作品がとても生き生きとしたものになる。船尾さんの国東半島の写真は、昨年、新宿でも展覧会が行われたが、その時は、写真が秘めている念の力が強いため、この種の作品を見慣れない人にとって、おどろおどろしく感じられたようだ。しかし、「共星の里」は、人間の作品以上に強い生命力を発する自然に囲まれているため、船尾さんの写真は、なぜだか清流のように清らかなものに感じられる。だから、都会のギャラリーで圧倒されることのない力の弱い作品をこういう場所に持ってくると、その貧弱さが、より際立つに違いない。

作品の力を判断するには、内装に凝って演出でごまかす都会のギャラリーではなく、共星の里のように、作品そのものの力が試される剥き出しのスペースに持ってきた方がよいだろう。

共星の里の館内には、八尋晋という若いアーティストの作品が多数常設展示されているが、彼の作品は、私がこの数年に出会ったアート作品のなかで、もっとも衝撃的なものだった。

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幸いに彼がトークショーを見に来ていたので、話をすることができた。彼の作品は、一見すると荒々しいエネルギーの流動体のように見えるが、本人の外観からは、そうした気配は感じられない。静かで、誠実で、とても精密な仕事をしている人であることが感じられる。

芸術は爆発だ!」という言葉と一対で語られる岡本太郎は、写真を撮ることも好きだったようだが、人を正面から撮ることができないほど繊細な性格だったらしい。また、作家の故日野啓三さんが東山魁夷さんを取材した時、地方役場の事務員さんのような服装で、地味なネクタイをして現れ、外見からは偉大な芸術家であるとはまったく感じられなかった。しかし話の核心に触れると、目が、おそろしい狂気の色を帯びていたそうだ。

「私は芸術家です」という自己演出をしている人に本物の芸術家はいない、と日野さんは言っていた。なぜなら、本物の芸術家は、そういうところにエネルギーを使わないからだ。日野さん自身も、決して大家ぶって偉そうなところは一つもなく、いつも勉強中の学生のような生真面目さと謙虚さがあった。

偉大な学者もそうだ。故白川静さんの家に初めてお伺いした時、チャンチャンコを羽織り、どこにでもいるような好々爺だった。そして、私が書いた企画書を見る時だけ、その目が、一瞬、恐いほど鋭くなったが、読み終えるとすぐに和んだ目になった。二流、三流の学者ほど傲慢でふんぞり返り、肩書とか経歴とか、どうでもいいようなことに執着する。一流の人は、仕事の本質に触れる時は非常に厳しくなるが、それ以外では、無駄なエネルギーを使わないのだ。

八尋さんは、まだ若いアーティストだが内面はとても成熟していた。彼は、発達障害者の人たちとも共同で作品を作っているのだが、その共同作品が、共星の里に飾られており、これがまた素晴らしい。のびやかで、元気いっぱいで、世界を融通無碍に飛び回っている精神が感じられる。

観念的に狭い場所に閉じこもったり、個人の好き嫌いを反映した知的趣味やファッションの一部になった表現ばかりが目につく今日の日本の表現界であるが、それらとは一線を画するものが、共星の里のように、日本のどこかに隠れていることは間違いない。しかし、そういうものが注目を浴びることは少ない。

現在のメディアは、消費生活と表裏一体となっている。また評論家をはじめとするインテリ層は、時代を解くキーワードと称する作品を取り上げて論じることが多い。なぜなら、それらの方が、インテリ層が所有している言語構造で支配しやすいからだろう。

けっきょく、インテリから見て得体のしれない怪物のような力をもった表現や、消費生活の卑小さをあからさまにするような表現は、今日の社会ではあまり歓迎されず、メディアで取り上げられることもなくなる。

表現には、テレビ的なフィルターを通して価値づけられ、その価値が増幅していくものと、テレビ的なフィルターでは、その価値がまったく伝わらないものがあるということだ。

共星の里が行っていることや、八尋くんの作品は、テレビ的なフィルターを通すと、その本質が伝わりにくく、まったく別の括りで紹介されることになるだろう。

それそのものに直に触れなければ、本物の良さはわからない。それそのものに直に触れなくても価値が増幅するものは、社会に流通している記号と相性が良いからであって、それは本物が持つ力ではない。本物というのは、社会に流通している記号を超越したところにある。

そして、本物の力を持つ作品は、作ることも見ることも、決して簡便に行えることではない。それゆえ、現代の消費社会では、多くの人に避けられてしまい、運営的に苦しくなる。

共星の里も、廃校を利用しているため、建物じたいの賃料はかからないが、入場料だけでは維持費がまかなえず運営面で苦労しているらしい。しかし、国から補助金を受け取って安易な方向に流れるのではなく、いろいろな工夫を行いながら、10年間、運営し続けてきた。

こういう場所が、各都道府県に一つずつでも存在し、それぞれが相互に交流しながら活動を発展させていくと、その価値は社会の中で増幅し、きっと今までの何倍、何十倍といった人々が認知することになるだろう。そうなれば、表現を取りまく環境も、変わってくるに違いない。安直なものが溢れかえる環境のなかで、作品の評価判断は好き嫌いに流れてしまうが、本物と出会いさえすれば、自分の好き嫌いの分別が、とても卑小なものであることに気づくのだから。