メディア、表現等、価値決定の仕組みの転換について

 スマートフォンで本を読むのは難しいと思っていたが、試しに青空文庫をダウンロードしてみると意外と読めることがわかった。むしろ、こちらの方が読みやすいものもある。例えば、先日、寺田寅彦の文庫を買って読みはじめたのだが、老眼が始まった目には活字が小さすぎて読めない。Ipadやキンドルでなくてもスマートフォンでさえ、活字は昔の文庫本より大きく、とても読みやすい。

 しかも驚いたことに、400円ほどのソフトをダウンロードするだけで、9000冊もの本が読めてしまう。夏目漱石とか太宰治など、小中学校の夏休みの推薦図書が全部無料で読めてしまうと、文庫本の運営は大丈夫なのだろうか。

 もちろん、お金を払って紙の本を買う人は存在する。私だって、紙の本は好きだ。

しかし、現在、書店に流通している無数の本で、読者が本当に欲しいと思って買っている本はどれだけあるだろう。学校の推薦図書だから・・、新聞の書評に書いていたから・・、仕事で必要だから・・、友達が賞賛していたから・・、巷で評判だから・・、その他諸々の理由でとりあえず買ってみて読み始めたけれど、大して面白いと感じず、途中で投げ出しているものもたくさんあるだろう。

 おそらく、出版業界が得られる大半の利益は、このように取りあえず買ってみたけど・・・というもので成り立っているのではないかと思う。

 本の世界に限らず、消費社会のなかでは、あらゆる製品が同じ消費メカニズムで販売されている。だから、企業は、“とりあえず買ってもらうため”に広告等ありとあらゆる手を使って仕掛けを行う。

 将来も紙の本が残ることは間違いないだろうけれど、今後は、とりあえず買われる紙の本は減っていくことは間違いない。とりあえずならば、電子書籍でチェックすればいいのだから。

 さらに青空文庫等を見ていて感じたのは、自分が知らなかった昔の本で、とても新鮮に感じられるものが実に多いことだ。巷の書店には新しい本がどんどんと山積みになっているけど、あまり面白いと思える本は少ない。評論家等が、書評などであれこれ推薦したりするが、それらを買って実際に読んでみても、読解力のせいかもしれないけれど、つまらないと感じるものが多い。

 青空文庫にこれだけ素晴らしい本が無数に存在し、無料で読めるのに、新しい本を次々と買う必要がどこにあるのだろうという気持になる。時代に追いつくために新しく作られたものに目を通さなければならないという強迫観念は、最近はすっかりなくなってしまった。後から出てきたものが“新しい”とは限らないからだ。

批評家とか賞の審査員等は、後から出てくるもののなかから新しいものを見つけ出して紹介する役目を負っていた。だから、彼等は、色々な理由をつけて、「これが今の空気だ!」などと言って紹介してきた。

 自分の評価によって世の中に新しい価値をもたらこと。審査員とか評論家は、そういう気負いがあるだろし、責任もあり、自負もある。それが自分の社会的存在感でもある。だから、今まで誰も評価しなかった類のものを見出し、それが新しい可能性だと評価を与える。そんな自分は「アンテナが広く、先見の目があり、頭が柔軟なんだぞ」と胸を張る。

 そういうことが、色々な表現分野で、ここしばらく続いてきた。こういう形で選ばれたものに対して、当然、異議を唱える者も生じる。その人達のことを、メディア受けの良い評論家や審査員は、頭が硬いとか、視点が狭いと揶揄したり、時に、保守的だと恫喝する。「常に新しさの最前線にいる自分だからこそ、その価値がわかるのだ」と仰る。美術館の学芸員さんなんかの話を聞いていると、そんな感じがけっこう多い。

 でも実際はどうなんだろう。中世の権威だった教会が、自分達こそ世の中の価値を定める選ばれた人間だという自負と、責任と、権力維持のために免罪符など次々と目先を変えた新しい手を打って、それによって益々、人心を失っていった状態と似ていないだろうか。

 「これが新しい」等と宣伝されても、けっきょく何も新しくなかった。そして、中世の人々は、過去を掘り起こして、ルネッサンスという時代を切り拓いた。後になって出てきたものより、かつて作られたものの方が、新しかった。

 けっきょく、新しいとか古いとかの定義付けじたいが、権威によって操作されていただけのこと。本当に新しいものというのは、いつ机の引き出しから取り出して見ても、新鮮さを失わないもの。世に出現した順番で決まることではない。コルトレーンの音楽のように、かつて衝撃を受けたものは、その後に聞き返す時でも高揚感は消えない。だからこそ芸術は革新的で、かつ永遠と言われたのだ。スタイルが目新しい程度のことで、革新的などと形容することはできない。

 そのように人々に衝撃を与える表現が、なかなか出なくなった。それでも、価値付けを行う権威のある人達は、新しい価値を提示しなくてはならないという状況で、以前に評価を受けたものと同じ土俵にあるものを評価するわけにはいかない、という気持はよくわかる。

 しかし、その昔、革新的で新しいものは、“体制”にとって危険視され、敵視されることが多かったが、現在はなぜか、評論家や審査員に新しいと評されるもので、「体制」と相性の良いものが増えてしまった。

「体制」とは、今日の社会では、美術界や文学界や写真界のことではない。その種の業界は、社会の体制に影響を与える力を持っていない。

 そうした業界よりも社会に強く影響を与える体制とは、大衆マスメディアであり、それと持ちつ持たれつの関係にあるスポンサー企業だ。それらの体制にとって都合の悪いものは、あまり表に出てこないが、危険のないものは、賞などの権威が販促活動に利用されて露出も多くなり、時々、スポンサーのイメージアップにも使われる。 

 写真家として有名になりたい人は、写真界から無視されても何の問題も生じない。むしろ現在の「保守体制」である大衆メディアにすり寄った方が、メリットは大きい。

こうした状況にブーイングを発しているのは、新しいものの価値がわからない保守的な人達ではなく、機密費がマスコミに流れている状況を知り、今日の「体制」のどうしようもない歪みに憤慨している人達と同じなのだと私は思う。

 それはともかく、ここ20年から30年、現象として次々と新規ものが現れたが、それらは、中世の教会が、これを買えば罪が許されると宣伝して売りさばいた免罪符と似ている。本当の意味で新しいことは何も起こらなかったのだ。

 この期間は、もしかしたら本当に新しいことが起こるための準備期間だったかもしれない。その準備とは、具体的な物のことではなく、従来の価値決定システムに対する“不信感”という一人ひとりの内面での出来事だろう。

 もはや、芥川賞(もはや誰が審査員をしているのかよくわからないほど審査員が増えた)や木村伊兵衛賞芥川賞とは対照的に、藤原新也さんや篠山紀信さん等、審査員は、長年同じ)が、時代に新しい風を吹き込むなどと誰も信じていない。その他無数に乱発される賞を含め、出版社の販促キャンペーンの一部だという認識を持っている人は大勢いる。

 さらに、評論家が言っていることに耳を傾けるのは、よほどウブな人か、自分にとってさほど重要でない案件であるかだ。重要な決定を下さなければならず真剣に検討する時に権威的肩書きをあてにする人は、まだ世間のことがよくわかっていないのどかな人で、そうでない人は、自分が本当に信頼に値すると思われるものにだけ耳を傾ける。友人とか、尊敬する人とか、大勢のレビューを見比べるということもアリだ。

 そのように従来の価値決定システムが崩れ落ちていけば、そのシステムの川上にいた大メディアは影響力を失う。同時に、その影響力の傘にいた人達も、人々から忘れられる。その流れに対する必死の抵抗はあるだろうが、もはや流れは変わらない。それは単に電子化等システムの問題ではなく、根底に“不信感”があるからだ。これまでは不信感があっても、他に選択できる手段が、あまりなかったのだ。とりわけ表現を行うもの、そして、表現に触れたい者たちにとって。

 こうして、従来の価値決定システムの崩壊とほぼ同時に、電子書籍などがドラスチックに登場する。

 私は、青空文化をIphoneで読めることくらいで驚いているが、この秋にグーグルが用意しているらしい「GOOGLE エディション」は、度肝を抜く内容かもしれない。同時に、グーグルのアンドロイドOSを積んだ端末が安価で一斉に売りに出されたりするのではないだろうか。

 こうした動きが意味するのは、紙から電子という単純なことではないだろう。電子でチェックして満足できそうであれば、紙の本を買うというケースもあるのだから、紙が無くなるわけではない。

 どれがいいか、という価値決定のヒエラルキーが、まったく無化されてしまうのだ。販売が少数しか期待できないという理由で出版社に相手にされなかった本や写真集も発表できるし、結果として、それを見たいという少数者も見ることができるようになるのだ。

そのように膨大で多彩な表現が溢れる状況で、青空文庫一つとっても、どれを読むべきで、どれがそうでないかなどと、いったい誰がリードできるというのだろう。

 松岡正剛さんのような人がエネルギーを割いて推薦本を決めていっても、氷山の一角でしかなく、松岡正剛さんを尊敬し、価値の羅針盤としている人は別として、そうした個人の限られた視点の中にどっぷりと入ってしまうことに懸念を覚える人は多いだろう。

 そこそこ数の多い情報が存在する時は、玉石混交なのはよくない等と主張しながら、自分が価値決定のイニシアチブを握ろうとする人も登場するが、情報が無限大にまでなってしまうと、もはや誰も案内役をすることなどできやしない。そもそも、そうしたハウツーを示す、それ専門の職業など必要ない、ということになるのではないか。

 とはいえ、混沌とした状況のなかで道標は必要だ。私の場合、自分が感銘を受けた作品を作り出す写真家や小説家が、どういうものを見たり読んだりして自分の肥やしにしているかは気にかかる。それは、その人に直接的に深く関わっているからだ。だが、いくら尊敬する人であったとしても、彼らが、「これが時代の空気だ」などと“客観的な視点”で推すものに手を出そうと思わない。彼らがその作品から触発されたり直接的に強く影響を受けているのなら話は別だが。そして、もし影響を受けるところがあるのなら、そう言えばいいと思う。作品を時代分析の客観的資料などに貶めたりせずに。

 

 今日、紙の本を電子書籍化するソフトを販売している会社の人と会った。電子書籍の本を出すことは、あまりにも簡単であることがよくわかった。

 自らの作品を人に見てもらうために、自らの手で電子書籍化する人も、今後、驚くべき勢いで増えていくだろう。

 上野の美術公募展とかに行けばよくわかるが、これだけ莫大な人間が、いったいどこで絵や書道や彫刻をしているのかと驚かされる。写真とか俳句とか小説とか含めると、天文学的な数になるだろう。

 そうした新しい状況のなかで、新しいとか古いとか、いつ発表されたとか、どの評論家が推薦したとか、どの賞を取ったとかは関係なくなり、自分にとって鮮度や強度があり、触発され、人生に何かしらのインパクトがあれば、それは自分にとって“新しいもの”ということになる。そういう目で、コルトレーンが聞かれ、サルガドの写真が見られることになるだろう。

 社会にとって新しい作品かどうか、ましてや、文壇とか写真家協会など業界団体にとって新しいかどうか等という概念はなくなるのだ。社会にとって本当に新しいことは、そうした価値決定の仕組みが変わる状況そのものだ。

 その流れを脅威と感じ、足掻く人も当然現れるだろう。現在の状況下で「保守的」というのは、その類の人達であって、ユージンスミスや、コルトレーンや、ガルシアマルケス西郷隆盛達を畏敬する人達ではないだろう。むしろ、それら現在よりも前の時代の人達を、「古い」という括弧に入れる人が、現代の消費社会の風潮や体制を維持したい保守的な人なのかもしれない。

 それはともかく、過去を振り返ってみても、その時代を代表する本当に革新的な表現者など、それぞれの時代ごとに数えられるほどしか存在せず、またいつの時代でも、それ以前の人の再評価が行われている。革新的かそうでないかは、後にならなければわからないもので、”今”の枠組みの中にいる人間が、評価できるレベルのことでないのかもしれない。