メディア、表現など・・・(後編)

 ユーラシア旅行社の元社員が、8年ほど前に退職して独立して、イラスト+文章の作家になった。そして、手紙と、本を送ってくれた。「とまこ」という名で頑張っている。

http://www.tomako.tv/

その第一冊目を世の中に出す際、50社以上の出版社にアプローチしたのだけど相手にされず、それにもめげずに挑戦し続けた時の話が印象深かった。

 私も、これまで何人もの写真の売り込みを受けてきたが、彼女ほどココロをこめたものは、なかったように思う。

 

「まず、企画書にもイラストをちらし、キャラで誘導して楽しく!ファイルも次へ次へとめくりたくなるような構成に。そして、手紙はもちろん手描き、便箋もカードも、和紙を張り合わせたり、イラストを散らしたりしてセンスのよいかわいさに。名刺も手作り。これも紙を張り合わせ、スタンプを掘っておしました。そして、封筒も手作りし、切手も、一番かわいいのをパッチワークのように並べました。たのしかったです〜、思いをこめるのが!

 わたしの作品が、未熟なことはわかっていました。

でも、わたしは、自分の持っている世界、本の中身に自信がありました。今ももちろん。

だから、かくのでしょうけど。主体的にかいてる人は、みんなそうなのでしょう
けど、きっと。わたしは、技術は甘いかもしれないけど、そこで勝負がしたかったのです。

 とはいえ、技術……

技術の甘さをカバーするもの、カバーして人を動かすもの。

それは、ココロしかないと思いました。それで、送り方で、こめました。

 ま、とはいえ、大多数はだめだったのですけど・笑!

 でも、なにがよかったって、中身も、送り方も、自分のできる全てを注いだもの
を見ての評価だ、ということでしたね。

それでふられるのならしょうがない、あきらめもつきます。

さぁ、原稿を書き直して次にイコーです。」

 

私の所には、以前、以下のような電話がよくかかってきた。

 「銀行に置いてある「風の旅人」をたまたま見たんですけどお、ネパールで写真を撮って帰国したところです。見てもらえませんかあ。」

 それ以外には、色々な出版社に一斉に送りつけているのだろうと思われるような、ワープロでの事務的な掲載依頼と、自分のプロフィールを事務的に記したものが届けられることも無数にあった。

 なんというか、「ココロなんてどうでもいい、俺の写真を見ればわかるよ」みたいな態度。

 これから自分の作品を社会に発表していこうという段階で、既にパーフェクトな域に達している人間なんている筈がないのに、自分の足らない部分に自覚的でなく、それを何かでフォローしようとしない人間の表現は、本人は自信満々でも、おそらく甘い部分だらけなんだろうなと予想できてしまう。

 売り込み時に限らず、表現対象に取り組む際にも、そうした、自分に厳しくないスタンスが反映されてしまうだろう。

 「感性だ!、フィーリングだ!」と、自分の能天気さを正当化しているだけの表現を私は信じない。だって、自分の表現によって表現対象(真理という言い方でも構わない)を損なってしまう可能性について配慮できていないものを、世に広めたいなんて思わないからだ。どれだけ配慮しても完全というわけにはいかないけれど、慎重に慎重を重ねて、自分の至らなさによって対象を損なったり歪めたりしていないか悩み、それでも、人に伝えなければならないという思いが強く、自分の作品を世に放とうとしている人。こういう人は、自分の作品を人に見てもらう場合も、慎重な態度をとると思う。物事をできるだけ正確に伝えようとする者は、作る時だけでなく、それを人に伝える状況や、その伝えられ方にも神経を使うものだから。

  ただ、大事なことは、上記の「とまこ」の手紙にもあるように、どれだけ真心をこめてアプローチしても、その多くは不発に終わるということ。

 真心をこめず、下手な鉄砲を数多く打っても、その可能性は、さらに遠のくばかり。といって、誠心誠意取り組んだとしても、5つ6つの手を打つくらいでは、山は動かず、何度も何度もアプローチして、ようやく僅かながらの道が拓く。そして、その道を、より確かなものにしていく為には、そこからさらに少しずつ、道を整備していかなければならない。

 これが世界の現実だ。気の遠くなるような話だが、生物というのは、そのようにして生き延びてきている。生物にとって環境世界はリスクだらけだ。いつウイルスに感染するかわからない。食べ物だって、いつ無くなってしまうかもわからない。生命を伝えていく過程で、売り込みの際に相手にされなかった出版社のように、一瞬の手遅れだったシャッターチャンスのように、いくら努力しても成就に至らない無数の機会があった筈だ。目の前を流れていく僅かな幸運を確実にものにする準備ができていたものと、そうでなかったもの。現在、この世界に生存できているものは、それらの周到な準備と反応の積み重ねの賜物だと言えるだろう。

 昆虫だって、魚だって、爬虫類だって、人間の身体だって、それぞれの分野での膨大な失敗と学習と修正の積み重ねのなかで、極めて精巧な状態を作り上げてきたのだ。

 人間の身体に比べて人間の自我というものは、環境世界での経験が十分でなく、身体ほどの精密さもなく、対応力が十分に整えられているとはいえない。だから、わりと簡単に、中途半端な段階で諦めてしまったり、ふてくされてしまうことがある。    

 自分という存在の拠り所を、そんな頼りない自我においてしまうと、生きていくことに困難が多すぎて、すぐに辛くなってしまう。断られても断られても、ココロをこめてアプローチし続けることなんかできなくなる。断られるたびに、人間の自我という卑小なヤツは、自分を損なっていく。この不完全で成長段階にある自我から自由になれる人間なんて、そうはいない。

 人間を最後まで導いてくれるものは、そんな中途半端で、いつ自分自身さえ裏切るかもしれない“自我”なんかではない。自我は、自分のほんの一部でしかない。

 たとえ簡単に事が運ばなくても、何度でもアプローチし続ける力となるものは、有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか、相手に気に入られたり自分を評価してもらいたいといった、自我にコントロールされた領域ではないのだ。

 

「中身も、送り方も、自分のできる全てを注いだもの を見てもらうこと。それでふられるのならしょうがない。」

 

こうした潔さを持っている人間は、強い。そして、こうした潔さは、自我から生まれるのではない。自我というのは、人との比較意識に支配される。人との比較をしながら何をどうするのか分別するのではなく、自分の丸ごとを出す。中途半端に出すことは、自分を歪めることになるから、できるだけそうならないように、丸ごと出せるように試みる。ココロをこめるというのは、そういうことだと思う。

丸ごと出すというのは、決して、アケスケということではない。アケスケにしてしまうことで損なわれるものに気づいている自分ならば、敢えて抑制するということも、ココロをこめることになる。どういう形であれ、その人の行為は、その人自身を表す。自我というのは、価値基準が自分の外に置かれているから、自分を歪める行為も平気で自分に命じる。 

そうした行為に対して、後ろめたいものがあるとすれば、それは、自我の支配にココロが抗っているということだろう。

ココロとは何だ?と、いろいろ議論はあるだろうが、私自身の定義では、人類として長い間、環境のなかで経験を積み重ねて身に付けてきた生態反応力のようなものだと思う。猫の髭や犬の鼻のように自分と環境のあいだの関係を敏感に探り、どう反応すべきか察知するためのセンサーに該当する。

人間の場合、ややこしいのは、後から「自我」がついてきたこと。この「自我」は、その時ごとの社会環境とのあいだで関係が結ばれている。だから、ココロに比べれば、関係性の積み重ねが足らず、精度も低い。感度の悪い犬の鼻のようなもので、センサーとして頼りなく、丸ごと世界全体と向き合うための自分の判断基準としては力不足。その為、オドオドと周りの動向に神経質にならざるを得ない。 

人間は、誰だって自我を持っているけれど、ココロも持っている。どちらを行動の基軸にするかで、その人の在り方が変わってくる。

ココロを基軸にする人は、人がどう評価されるかに関係なく、ココロを大事にする。

そして、ココロを大事にする人は、簡単にメゲない。

「自分のできる全てを注いだものを 見てもらうことが大事であり、人や社会の判断なんて、二の次だからだ。





とはいえ、社会的生物である人間は、社会と関係を保つ以上、そんなに簡単に自我を抑えることはできない。この社会では、「自分のできる全てを注いだものを 見てもらうこと」が簡単でなく、また、そのように必死にココロをこめたものに、ココロで向き合ってもらえず、機械部品のように事務的に処理されてしまうことも多いのだから、なおさらのこと。

たった一人でも、「自分のできる全てを注いだものを 見てもらうこと」ができれば、自分のなかのココロを安易に自我の支配下に置いたりせず、大切につないでいこうと思えるのだろうけれど・・・。

多くの人が了解して納得しやすい枠組みのなかでの優劣ではなく、たった一つの表現や、一人の人間と関わって、ココロがグッとくること。そうした出会い一つで、「自分は この世で 生きてていい・・」という実感につながることがある。

一人ひとりにとって本当に信頼に値する羅針盤というのは、物を見る目があるという立派な人の手引きではなく、ましてや社会の風潮や実力者の言葉や周りの目に頻繁に右往左往する自我ではなく、そうした出会いの際に、グッと反応できる自分自身の身体なのだろうと思う。