人生も、既製品からパターンメードの時代へ

 東京ビッグサイトのデジタルブックフェアで、一般向けの新しい書籍端末が見られるのかと期待していたが、アンドロイドを搭載した企業向けのタブロイド型端末を見ただけだった。その端末は、企業のニーズに合わせて、仕様を変えるのだという。
 アンドロイドOSを搭載した一般向けのタブロイド型端末は、中国で1万円くらいのものが発売されているから、日本の電気メーカーは、この市場への参入に躊躇しているのだろうか。パソコンの時のように激しい価格競争にさらされるだけだから。
 
そもそも、タブロイド型の端末は、グーグルがアンドロイドOSを無償供給しており、それを使うメーカーは、大した違いが出せない。アップルも含めて、基本
的にユーザーが自分に必要なアプリケーションをダウンロードして使うというスタイルの、言ってみれば、パターンメイドだ。

 
電気メーカーは、一般マーケットで戦っても消耗戦になるだけだから、企業や病院や教育現場の中に入り込んで、それらのニーズをしっかりと掌握したうえで最
善の提案をしていくビジネスモデルを模索しているのだろうか。病院や教育現場や企業は、スタッフ全員にタブロイド型端末を持たせることで情報の共有やペー
パーレス化を進め、全体を通して大幅なコストダウンにつなげられると判断すると一挙に導入するることになるだろう。その際の情報共有や、個人が行う見積も
りなどの計算ソフト、文章ソフトなどもクラウドで管理した方がベターだという提案を行い、そのトータルなシステムを構築して企業に販売する泥沼の価格競争
に巻き込まれないビジネスモデルを、メーカーは作り上げたいだろう。

 タブロイド型の端末は、荷電量販店を通じて人々の手に浸透していくだけでなく、そのように企業や病院や教育など「仕事の現場」を通じて広がっていく可能性が、とても高い気がする。
 20世紀の家電製品は、メーカーが市場分析を行って商品の内容を決定して、それがいかに優れているかを広告など様々な手段を通じて伝え、より多くの支持者を集めることで大量生産が可能にし、コストダウンを実現し、競争優位に立つという戦略を持っていた。
 
こうした産業構造は、メディアの構造でもあった。情報伝達をビジネスとするメディアは、自らの事情に応じて伝えるべき情報を選び、その正当性を高めるため
の様々な努力を行う。メーカーと同じように品質を高める努力をするとともに、より多くの支持者を集めるために、時に読者に媚びたり、有名人を起用するなど
権威付けを行うのだ。

 
20世紀は、産業メーカーもメディアも、実はまったく同じ構造だった。彼らが、彼らの事情に応じて作ったり選んだものを、一方的に、広く一般に伝えること
を使命としているという点において。こうした構造を維持するうえで、メディアにとって非常に都合の良い評論家もたくさんいた。

 
評論家のなかには、反体制のポーズで企業などを批判的に論じながら、メディア受けのしそうな写真や文学などを革新的であると好意的に紹介し、自らが革新の
旗手であるかのように自己演出する人もいるが、「自分が選んだものを、一方的に、広く一般的に伝えること」を使命とし、それを行う自分が、いかに見識が高
く目に曇りがなく公正であるかを強調することにおいて、20世紀的な構造のなかに意識が囚われていると言える。もはや、そうしたスタンスじたいが、革新で
はなく、古すぎるのだ。

 これからの時代は、誰か特定の人や産業メーカーが、自分の事情に応じて何かを特定し、それを一方的に伝え、その正当性をゴリ押ししていく時代ではない。
 
より多くの人が、自分の事情に応じたものを自分の周辺につくるようになる。既製品を買えば、カタログで紹介されているのと同じようになると考えている人
は、妄想がひどすぎる。カタログの中の状況と自分の状況は違う。同じ既製品でも、状況が違えばまったく別物になってしまうことを、これまで続いてきた空し
い消費生活を通じて人々は少しは学んでいる筈だ。つまり、ルイヴィトンが似合う人もいれば、似合わない人もいるという真実。ルイヴィトンが、誰にでも通用
する価値あるものではないという当たり前の事実。

 これは教育にも、進路にも関わってくることだろうと思う。誰か特定の人がかってに決めた幸福の方程式が、誰にでも当てはまる筈がないのだ。
 
だからといって、誰もがすぐにオーダーメード型の人生を送れるとは思えない。しかし、スマートフォンタブロイド型の端末のように、パターンメイドならで
きる。人生もまた、そのように自分の工夫次第で、自分に固有のものを作り上げることが、昔よりも遥かに簡単になっている。

 
そうした柔軟な発想ができず、人生においても有名な既製品を身につけることに執着しすぎると(正社員になれない場合は、契約社員でも有名企業に所属したい
願望など)、評論家の声や世間に流れる情報に常に惑わされてしまう。写真表現を志している人なども、世の中にデビューすること(メディアに取り上げられる
事が、デビューだと思っている)や、注目を受けることが目的になってしまっている人は、権威ある人の声に影響を受けすぎてしまい、自分の視点を失い、作品
が深まっていかない。自分の事情に応じて、自分ができる最善のことをきっちりとやろうとしている人は、時間の経過とともに、自分の世界が豊かになっている
ように思われる。

 
グーグルエディションをはじめ、電子書籍世界のなかには、もしかしたら数人しか読まれないかもしれない本も無数に含まれていて、検索という方法で、その本
がどうしても必要な人に発見されやすくなっている。20世紀型のメディアだと、最低でも数千部は売れると計算できるものでないと、出版される機会はなかな
か得られなかったのだ。

 数人を対象としたものでも電子書籍は簡単に作る事が出来る。PDFやブログなどのテクスト文章や、jpegpなどの画像データーから、本や写真集を簡単につくることができるソフトが既にたくさん作られている。しかも、販売することもできるのだ。
 
今後、本も、それ以外のものも、自分にとって必要なものを自分で選択し、自分の人生をパターンメイドしていくようになっていくのだろう。もちろん、パター
ンメイドでは物足らずに、人生をオーダーメイドをしていく人も出てくだろうが、少なくても、誰か見知らぬ人が世の中を分析して、ベストなアンサーだと押し
付けてくる既製品で人生を固めようとする人が減少するのは間違いない。経済構造も、昨今の不況は、そうした経済構造の変化と無関係でない。そして、メディ
アは、経済構造とは別に存在し得ない。

 既製品というのは、世の中を分析して最大公約数を探り、それに基づいて作るものを全ての人にとって普遍的価値があるかのように押し付けていく思想的枠組みの産物だ。
 
20世紀のメディアや、そこに寄生するインテリが、既製品の思想的枠組みの産物であるならば、21世紀の表現や情報伝達は、世の中の分析の結果ではなく個
人の必然性に応じて作られたものが、それに呼応する人から人へと伝わり、それぞれの局面での必要に応じて、エッセンスを共有しながら柔軟に形を変え、波の
ように広がっていくものになっていくのだろう。一つの権威によって全体が束ねられるのではなく、無数の自立した集合体が有機的につながったり離れたりする
のだろう。