芥川賞作品『乙女の密告』への違和感と懸念



 アンネ・フランク現代社会を交錯させる小説、「乙女の密告」。これが芥川賞を受賞した。一言で言うなら「味気ない」ものだった。だから、二度読もうという気にはならない。

しかし、この作品が芥川賞を受賞するところに、現在の日本のインテリが陥っている深刻な問題が横たわっているのではないかと私は感じる。その感覚は、非常に微妙で説明しづらいのだが、自分でもきっちり認識するために、その違和感について書いてみようと思う。

この小説は、私にとっては文学業界周辺で騒がれているほど面白くはなく、物足らなさと、「こんなに雑なことでいいの」と違和感を感じるものだった。本ばかり読んでいる人は別として、人に「面白い」と思わせようと狙ったものは、この世に腐るほど存在しているので、小説の中で虚構的につくりあげる状況設定や、台詞の言い回しや、人物の設定の仕方や、比喩程度のものでは、もはや「面白い」と感じることはできない。手の内が透けて見えてしまうようなものは、逆に面白くも何ともない。

この小説のように「乙女世界」と「アンネフランクの置かれた世界」を組み合わせるという発想じたいは、他の人が簡単に思いつくものでもないし、思いついても実際にやるには勇気がいるので、その試みじたいは「面白い」ことなのかもしれないが、もしそういうことなら、それはコンセプトメーキングの面白さでしかない。コンセプト企画は広告会社やイベント会社が様々な趣向を凝らしてやっているが、前評判は高くても、実際に足を運んで満足できるようなものは、ほとんどない。

「面白さ」には、やはり「予測不可能性」という部分が必要だ。といっても、ミステリアスさを装って、あからさまにすれば大したことがないものを隠しながら相手を焦らすという技巧的なものでは納得できないくらい、その種のものは氾濫している。

「あからさま」になっているのに、自分の中にしっかりとできあがっている既成概念では計りしれないものである時、私は、「面白い!」と思う。自分の中の基準を超えてしまうものが、その人の手にかかることで一つのコスモスになっている時、面白いなあと思う。

「俺は型破りだぞ」と主張しながらやっていても、そのようにする計算とかナイーブなメンタリティが透けて見えてしまうと、「わかってしまって」、白けてしまう。ちっとも面白くはない。

自分に染みついたものとまったく別の回路がこの世にきっちり存在しているのだと知ることは、とても刺激的だ。ワクワクする。自分に染みついたものは、自分だけが原因でそうなったのではなく、教育やその他、社会の中で生きていると否応なく付きまとってくる様々な情報、取りきめ、暗黙知、の影響を受けている。それが「世界」だと思わされており、そう思うことで安心することもできるが、教育をはじめ、そこで伝えられる真理というものの便宜上の構造が透けて見えてしまうと、「そんなもんじゃないだろ」と思う天の邪鬼の自分が、自分の中に現れる。

乙女の密告』は、作る前に作者のアタマの中で落とし所が決まっていて、そこに向って、設計し、材料を整え、構築するデザイン住宅のようだという印象を持った。デザイン住宅を見て面白いと言う人は、全体の形以外の部分では、ドアの付け方とか、窓の位置とか、つまりディティールの遊び心だ。

多くのデザイン住宅の欠点は、そこに住む人のことをあまり考えていないのではないか、と思わせるところ。以前、家探しをしていた頃、見栄えが悪いという理由で洗濯物や布団を干すスペースがなく、それを指摘すると、乾燥機(布団乾燥機も)の存在が前提になっている、と言われたことがある。

お日様に当てた布団や下着の気持よさという、目に見えにくいけれど、人間にとって実はとても大事なことに対する配慮がない。

お日様に当てた方が気持がいい理由は、科学的なメカニズムはよくわからないが、経験上、多くの人が感じていることだ。乾かせばいいということではなく、ダニ等も含めて、下着や布団には微生物が無数に付着している筈であり、それらとお日様の関係で、何かしらの作用があるのだろう。

見た目重視のデザインハウスは、通気性を含め、そうした人間の生理的感覚を無視しているものが多いので、常にどこかに違和感を感じ、飽きやすい。

「見た目が違うだけの新しさ」と、「結果として同じように見えるから、それでOK」と見た目に基準を置く発想が、現代社会のあちらこちらに行きわたっている。食べ物なんかにしてもそうだ。ビニール手袋で機械的に寿司の形状に整えたものが「寿司」として売られる。本物の寿司を食べ比べれば、その違いは歴然だ。米もネタも生きたものであり、職人がそれらを手にする瞬間の、場全体の、おそらく湿気や気温も含めたトータルの感覚が関与して存在している。それを掌で最善のものになるように調整しているのが本物の寿司だろう。もちろん市場に行って旬のネタを選ぶところも含めて。つまり、本物の寿司は、その瞬間のそれじたいが固有のものであり、その場の中で最善のものとなるように精魂を込められたものなのだ。それに比べて、ビニール手袋で作る寿司もどきは、「どこに持っていっても同じ」ということが前提になっている。電子レンジに入れて温めれば完成という状態にして、あちこちの店に流通されるチェーンレストランのメニューも同じだ。つまり、それらは、均質空間のなかでの“普遍性”を目指している。

乙女の密告』という小説もまた、最初から、現代の均質空間の“普遍性”という網のなかにボールを投げて点数を稼ぐことが目的化されているように見える。この作品に違和感を感じる審査員が何人かいたようだが、議論に負けたのは、この“普遍性”という目指すゴールのためだ。しかも、その普遍性は、インテリの弱みに付け込んでいる。

アンネが生きた時代と、現代の乙女たちの時代、「頭で考えられ、嵌めこまれた二つの世界だが、差別が発生する本質は同じ」と審査員が言っていたような、正しいコンセプト。

それに対して、審査員の一人である村上龍が、「人種差別は絶対的な悪だが、悲しいことに誰もが密告者になり得るという真実は、もっと緻密に、そして抑制して書かなければいけないと思う。そんな小難しいことにこだわらずに、もっと単純に『乙女の世界』を追体験すればいいという他の選考委員の意見もあったが、残念ながら単なる好みの問題として、わたしは感情移入ができなかった」と述べている。

「そんな小難しいことにこだわらずに、もっと単純に乙女の世界を追体験すればいい」と言う選考委員もマヌケだが、「単なる好みの問題として感情移入できない」と、“好みの問題”という言葉を使う村上龍も、意気地がない。

村上龍が違和感を感じながら言っていることは、小難しいことではなく、大事なことだ。誰でもが密告者になり得るという真実を、緻密に、そして抑制して書かずして、何が文学なんだろう。緻密さと抑制を豊穣に転じさせることこそが文学ならではの力であり、単純な『乙女の世界』の追体験ならば、他の表現、もしくはコンピューターのロールプレイングゲームでいいのではないか。

まさしく、この小説は、村上龍が違和感を感じながら、“個人的な好みの問題”として引き下がってしまった、「緻密さ」と「抑制」がない。そうなっているのは、最初にコンセプトありきで、個々の要素は、コンセプトに導くための記号的材料にすぎないからだ。

それが、私が感じた“味気なさ”の一番の理由になっている。

学校内の不倫が疑われ、そこから発生する『密告』と『噂』が、アンネがゲシュタポに密告された状況と重ねられる。

しかし、描かれるのは、人が疑われるメカニズムであり、疑われることの、どうにもならないくらいの息苦しさは、大して伝わってこない。その部分の苦しみがあまり感じられないので、それを解き放つ瞬間の喜びも、あまり伝わってこない。

このようにして人は疑われ、噂は広まるというステレオタイプのパターンが、言葉で説明されていくだけだ。

人間はいとも簡単な理由で人を差別するというコンセプトを伝えるために、ディティールをあまり重視していないのだという読み方をすることもできるのかもしれないが、そういうステレオタイプの決めつけ方が、差別の構造の一部でもある。自分のメッセージのために、モノゴトを分類し、整理し、枠に入れていくということ。アウシュビッツのプラットホームで、収容者たちを右左に分類したメンゲレ医師もまた、自分の側のかってな基準に従って、人を整理し、ガス室かそうでないかという枠にはめていった。

「乙女はそういうもの」と括り、その延長線上に、「人間は誰しもそういう可能性のあるもの」と括る。それもまた自分の側のかってな基準だ。でも、そんなに単純なことではないのではないか。

「普遍的に誰しもそういう可能性がある」からそれが起こるというのは単純すぎる解釈であり、それを引き起こすトリガーが何であるかを伝えることこそが、表現としてさらに重要なことではないか。特別なトリガーなんかなく、些細なことでそうなるのだ、と言うのは安直すぎる。きっかけはたわいなくても、その準備はそんなに単純ではない。

「ライオンはシマウマを襲って食う、そういう性質がある。」ということだけを示すならば文学はいらない。「ライオンは、シマウマを襲う時もあるし、目の前にシマウマがいても知らん顔をしている時がある。その二つの状況において、ライオンの顔つきも目も行動の俊敏さもまるで異なる。ライオンって奥が深い」と感じさせるディテールの積み重ねが文学だろう。

また、『乙女の密告』は、差別というテーマと並行して、自己アイデンティティのことが描かれている。ユダヤ人であることのアイデンティティは、ユダヤ人に苦しみをもたらす。だから別のものになりたい。しかし、他者が決めるアイデンティティユダヤ人とかドイツ人とか)は、けっきょく情勢の変化によって、あてにならない。だから、結局のところ、自分のアイデンティティは本人が決めるしかない。

アンネは、ユダヤ人というアイデンティティに苦しみ、「戦争が終わったらオランダ人になりたい!」と願う。

それはユダヤ人以外の何ものかになりたいという宣言であり、それは自分がユダヤ人であることを名乗っていることになる。苦しみのあまり、そう言うことじたいが、自分が、ユダヤ人であるというアイデンティティを逆説的に浮かび上がらせる。

「アンネを密告したのは、アンネ自身である」という、この作品の落とし込みは、作者としては歴史史実に関する新説の提示ではなく、噂も含めた他人の評価によるアイデンティティ問題で苦しみ、自分のものと言える存在証明を手にいれようと足掻く現代の多くの人間のことを意識してのことだろう。

小説の読み方は人それぞれだが、芥川賞の審査員でこの作品を強く推した人々が言及している「差別問題」よりも、「差別も含めた他者や社会からの一方的な評価ではない、自分自身のアイデンティティを探し求めて獲得していく若者」というのが、この小説の主たるコンセプトだと私は感じる。そのコンセプトのために、アンネ・フランクが切り取られただけではないか。

この小説の中では、アンネ・フランクに起こった事実ではなく、スピーチ原稿用の『アンネの日記』の中のフレーズが切れ切れに挿入されているだけで、本物のアンネ自身に迫る描写は存在しない。アンネ自身と、アンネが置かれていたリアルな状況を伝えることが目的ではなく、自分探しがテーマだからだ。作者自身、そういう視点で世界を見つめているのだろうと思う。デザイン建築を設計する人で、その家に暮らす人のためではなく、自分のアイデンティティにつなげる自己表現の為に、“他人の家”を利用している人のように。

そうしたスタンスで作られるものは、自己を大切にするあまり、他者が疎かにされる。この小説の場合、一番疎かにされてしまったのは、アンネ・フランクだろう。

この作者は、勇気があるから、アンネの日記と現代を交錯させようと試みれたのではなく、自己のことで頭がいっぱいで、アンネが置かれた状況に鈍感でいられたから、それが可能だったとも言える。

アウシュビッツに実際に行けば、アンネの置かれたリアルな状況がわかる、という単純なことでもなく、人それぞれの想像力によって事情は異なってくる。しかし、それでも、作家としての誠実なるスタンスとして、この作者は、実際にそれぞれの現場に足を運び、めいっぱい自分の想像力を働かせることをしたのだろうか。

もしそうしていたならば、そして想像力を働かせば、こうしたコンセプチュアルな枠組みのなかに、安易にアンネを嵌めこむのは躊躇われたのではないかと思うのだ。アンネを書くことを決めて、いろいろ文献をあさり、1年も経ずに作品を書いたようだが、短期間でできてしまうのは、コンセプトを閃いた段階の自分の思考や感性の枠組みのなかに材料を嵌めこんでいったからだろう。まさにデザイン建築と同じだ。もちろん時間をかければいいというものでもないが、アンネをコンセプトの単なる素材にするわけにはいかない、という気持があれば、そうはいかなかったのではないか。

舞踏演劇集団パパ・タラフマラの演出家である小池博史さんは、パパタラの創設以来の目標が、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を作品化することだった。しかし、『百年の孤独』を損なわないようにするためには自分の力量では不十分だと感じ続け、20年以上経ってようやく取り組んだという話を聞いた。

百年の孤独』も、『アンネ・フランク』も、現代の世界と向き合ううえで、非常に重大で深遠なるテーマを含んでいる。断片だけを拾い集めて自分の作品の材料に取り組んでも、コンセプトと部分の技巧ばかりになり、中身が感じられないものになってしまう。そういう浅いものは、何度も見たいと思わない。

森村泰昌という芸術家もまた、レンブラントゴッホなど、過去の重大なる作品を自分のコンセプトのなかに嵌めこむという手法で作品を作っている。しかし、彼が違うのは、そういう行為をしてしまう自分自身を、全て曝け出せるところだ。作品に対する愛着も含めて、愛する対象を自己表現に使って自分を示したいという現代の一種の精神的症状を、ナルシスティックに示し、そうする自分を笑いものにしている。表現者として身勝手な自分を突き放して見る目線が、彼にはある。自己中心的な自分の表現行為。現代人ゆえに、簡単に自己から逃れられないが、そのことに自覚的であるから、自分の表現を、『乙女の密告』の作者のように、(アンネのように)「血を吐いて書く」などとは言えないだろう。

今回の芥川賞の選考委員会で、村上龍のように、最後まで違和感を感じた人達は、『アンネ・フランク』を作品の中に織り込みながら、一種のドタバタ(宮本輝談)喜劇のような受け狙い(たとえ真面目なデフォルメであっても、そう伝わってくる。つまり懐が甘い)の演出から、血を吐くような姿勢が伝わってこなかったことが一番の理由ではないか。そして、それはマズイと直観しているのではないか。でも、そのマズサが何なのかよくわからないから、「個人的な好みの問題で支持できない」と言う。個人的という言葉が出てきてしまうのは、一方の賛成者達が、「差別問題」という“普遍”を盾に、この作品を推すからだ。

現代のインテリの多くは、社会問題という普遍の側に立って考えなければならない、という意識が強い。だから、いくら粗っぽい内容でも、そうしたポジションから投げてくるボールを、うまく打ち返せない。誰にでもわかりやすい「正しさ」は、現代社会においては強い論理力になる。『アンネ・フランク』という個人にとって何が正しかったかということよりも、「人種差別は悪だ」という大きな声の正しさが、勝ってしまう。

しかし、本当は、村上龍が漠然と感じているように、差別問題だけにかぎらず、あらゆることに対して、もっと緻密に、そして抑制して取り組むことこそが、大事なのだ。

「乾燥機で乾くのならばそれでOK」ではない。「酢飯の上にネタが乗っていれば寿司」ではない。「そんな小難しいことにこだわらずに、もっと単純に●●●を追体験すればいい」という芥川賞選考委員の底の浅い悪魔の囁きに簡単に乗ってしまってはダメなのだ。

なぜなら、「人種差別は悪だ」「誰にもその可能性がある」という人ごとのようなメッセージよりも、「実際にそれがそうなった時のおぞましさや痛みや苦しみの計り知れなさ」や、「なぜそれがそうなってしまうのか、自分のなかに潜んでいるそのメカニズムはいったい何なのか」の方がよほど大事であり、それらの複雑精妙な描写ができてこそ、作品の味わいになる。

甘みだけでなく、酸っぱさや辛さや苦みも含めて、味わいだ。味わいのない小説なんて、すぐにブックオフで100円で売られる類の消費財にすぎない。コンビニで買う寿司は、寿司を食べたという記録は残っても、余韻は何も残らない。それと同じ。

モノゴトの味わいは、想像力とつながっていると思う。苦みや渋みも含めて、味わい深いものをたくさん食べれば、食べ物の味に対する想像力は増す。

文学は、生きるうえで大切な様々なことに対する想像力につながっている。人と人との関係は、その最たるものだろう。味わいのないものが大量生産されるばかりだと、その部分に支障をきたす。人間は誰しも差別をしたり、されたりする可能性があるかもしれないが、“痛み”に対する想像力がどれだけ発揮されるかによって、状況は少しでも変わる可能性があるのではないか。

文学が伝えるべきことは、「正しいこと」ではなく、“痛み”も含めて、緻密に、抑制して、人の想像力に働きかけることではないか。政治的雑誌のように、右左に関係なく人心を煽って誘導して正しいことを刷りこむことは、結果的に、人の想像力を減退させる。想像力の減退こそが、人が知らず知らず行ってしまう差別を、歯止めのきかないものにしてしまう。

頭でっかちのインテリは、功を焦っているのか。大きなメッセージで、世界を善なる方向に導きたいと思っているのか。世界中で様々な問題が起こり、丁寧に取り組んでいる時間はない、という強迫観念にとりつかれているのか。しかし、実は、そうした粗雑なスタンスの膨大な積み重ねが、現代の構造を作っている。

乙女とか、アンネ・フランクとか、ルイヴィトンとか、平和とか、地球環境とか、抽象的な記号を使わざるを得ない時代環境だとしても、その内実への取り組みを、表現者がやらずに誰がやるのだろう。どんな内実にも、精妙な味がある。頭でっかちになればなるほど、その味わいがわからなくなる。微妙で豊かな味わいは、緻密に、抑制して取り組まなければ、出てこない。人生を味気ないものにしていくメカニズム。近代的合理主義というのは、まさにそういうプロセスを増進させるものであり、近代以降の人間が行った酷い行いの背景には、そいつがある。近代以前の差別と、近代以降の差別は、見た目は同じ差別かもしれないが、その容赦の無さは、まったく異なる。

戦争もまた、悪であると簡単でくくっても何にもならない。古代も中世も戦争はあった。しかし、近代以降とは性質が全く異なる。現代の恐ろしさは、差別とか戦争とか、記号化された悪ではなく、いろいろな局面で突然噴出する“容赦の無さ”なのだ。その容赦の無さは、人生の味気なさと、きっとどこかでつながっている。