「アタマでっかち」と、時間が止まった社会

「頭でっかち」が、時間を止めてしまっている。そう感じることが、たびたびある。社会も、会社もそう。

 例えば、新しいことを始めようとして現状分析をすることは、現代では当たり前の行為になっている。世の中で何が流行っているか、他の会社がどんなことをやっているか。会社でも役所でも政治の世界でも、リサーチはとても大事。リサーチや分析が得意で、それをロジカルに説明できる人が優遇されたり、ご意見番になったり、権限を持っていたりする。

 しかしながら、たとえリサーチや現状分析が大切だとしても、現状をなぞるように発想されるものは、しょせん現状の枠組みのなかのものにすぎない。すなわち現状のコピー、現在の再生産でしかなく、真の意味で創造的なものにはならない。

 そのように現在の再生産にすぎないものを、いかにも新しいものであるかのように演出すること。それが、現代の“新しさ”だ。こうした傾向が、長い間、ずっと続いている。その間、私たちの時間は停止している。現在社会を覆う息苦しさは、この時間の停止に関係があるように私は思う。

 最近、ベルサイユ宮殿で村上隆の展覧会が開かれ、メディアで話題になった。その作品の良し悪しはともかく、学芸員や評論家が自信満々の表情で、「かつて印象派の画家たちも批判された。新しいものは、常にそうだ」と息巻く。すなわち、村上隆の展覧会が一部で批判されている現象は、かつての印象派の画家達と同じであり、その価値をわからない人がいるが、先見の明がある自分達はその価値をわかっている、という論法だ。

 しかし、村上隆印象派の画家達は違う。村上隆は、既にアートで稼いでいるし、アート産業の分野で地位も名声も獲得している。つまり、かつて印象派の画家達を批判した“アートサロン”の人達に、現代の村上隆は非常に受けがいい。弟のテオがその活動の全てを支えていたゴッホとはまるで違う。

 さらに異なるのは、印象派の画家達が登場した時は、「新しい創造物は、簡単に社会に受け入れられない」という認識など定着していなかった。それがゆえに、その文脈で作品を評価したり判断するということがなかった。

 「新しいものは、評価されない」という知識のフィルターを通して作品を見て、そのフィルターが見る者の判断に影響を与えているという時点で、もはや事情は違ってきている。

 例えば、マルセル・デュシャンが美術館に便器を初めて置いたことは、それじたいが新しく創造的な事件だった。しかし、「そうしたことも芸術にはアリ得る」という認識ができてしまった後、同じようなことをしても、もはや事件ではない。さすがに便器を置かないにしても、別の切り口で似たようなことをして、似たようなメッセージを発信することが「現代アート」になっているが、それは人真似にすぎず、創造性はどこにもない。

 既に認識済みの価値概念で輪郭をなぞり、現代アート業界の言語であれこれ説明しようと思えばできてしまえるもの。今日の表現は、そういうものばかりになってきている。その世界のなかで成功するかどうかは、作品の創造性ではなく、どれだけ計算高くコピー行為を実行できるかどうか、という違いでしかない。

 ビジネスにしても同じ。インターネット等を通じて“新しさ”が強調されているが、基本的に、それまでの価値概念のなかの物の流通の仕方を変えたり、製造方法を変えたりしただけのものが大半だ。

 この不況下で堅調な業績推移をしている携帯ゲーム産業にしても、携帯コンテンツのためにハードを製造する必要がなくて利益率が高くなるうえ、課金システムにより安易に購入を促進できるというビジネスモデルの点でメリットがあるゆえに投資家に注目されているというだけであり、そのコンテンツが人間の視野を変え、新たな認識に導くものだとはとても思えない。

 1990年のバブルの頃より、人間の意識は、ずっと同じところに停滞している。頭でっかちな状態で、現状を分析し、その策を練って実行するという現代の再生産を繰り返すばかり。だから、閉塞感がある。

 こうした状況を抜け出すためには、いったいどうすればいいのか。何がそれを邪魔しているのか。

 一つ言えることは、アタマを中心に活動していくことを、身体感覚を中心に活動していくことに切り替えなければならないのだろうと思う。しかし、アタマを中心に活動していくことについては、説明の必要がないくらい誰にとっても当たり前のことになっているが、身体感覚を中心に活動していくということがいったいどういうことなのか、ピンをこない人は非常に多い。それ以前に、身体感覚自体が損なわれているということもある。

 右も左も道が塞がれている時、勢いよくまっすぐに走って体当たりで局面を打開することが必要な時もあるが、そうした身体的瞬発力を、頭でっかちの”打算”が損なってしまう。

 人や物と出会う際にも、グッとくるものがあって、その感覚を行動につなげること。そのグッとくる感覚が鈍ってしまったり、それがあったとしても、その感覚に素直になれなかったり、あれこれアタマで考えてしまい、それが自分に何の意味があるのか、何のメリットがあるのか、という答ばかり得ようとする。そういうことを抜きにして、とりあえず動き、動きながら考えていくことが、なかなかできない。答えがないと動けないと言って立ち止まってしまうのではなく、動きながら答えを探し続けていくこと。動きさえすれば、何らかの答えの方向が見えてくるということもあるのだけど、その保証がないと動けない、という自己制御装置が働く。

 しかし、文章ひとつとっても、書くべきことがはっきりしているから書くのではなく、書いているうちに、自分が何をどのように考えているか、浮き上がってくることがある。思い切り体当たりすれば、想像していた以上に、壁は堅固でなかったということもある。もちろん、体当たりの威力こそが大事なのだが。

 あれこれアタマで理由付けができるものに、閉塞的な現状を変える力などありはしない。

 「印象派もまた、最初は評価されなかったのだ」などという知識分別をもって村上隆の作品を見ていると、もうその時点で、その人間の感覚は鈍麻している。新しさなど発見できない目になっている。

 そんな知識分別とは無関係に、村上隆の作品の前に立った時、グッとくるものがあるかどうか。ベルサイユ宮殿の中の装飾物が、村上隆の作品によって何かを引き出され、新たな力を持って輝きだしているように見えるかどうか。それがなければ、アート産業の寄生者達がどう評価しようが、どうでもいい。

 しかしながら、近年、頭でっかちの世界のなかで、“グッとくる”といった言葉さえも、賢そうに見えないということで嫌われている。

 人でも物でも、あれこれ意味や理由を考えなければならないような出会いは、いくら数多く自分の周辺に集めたところで、自分に何の変化ももたらさない。グッとくるような出会いが一つでもあれば、その瞬間から波動のように伝わって、いろいろなことが変わってくる。

 たった一つの、そういう出会いを求める人生。現代の社会の価値観のもとでは、もしかしたら、村上隆の作品と対照的に、ゴッホが描いた”じゃがいも”のように、地味だ、暗い、華やかさがない、などと言われて切り捨てられやすい“寡黙な一回性”が、その複雑精妙さによってコピーできない固有性に到達することで、後の時代になって高く評価される可能性だってあるだろう。

 何度も繰り返すが、村上隆の作品は、かつての印象派の画家達のように時代の価値観に染まらず、それに先行するがゆえに人々に理解されず批判を受けているというよりも、時代のムードに賢く迎合している結果として、ベルサイユで展覧会ができているのだ。キュレータの先見の明によるものではなく、既に“世界的アーティスト”などと持ちあげられる人気者なのだから、ゴッホとは違い、既に誰にでもその価値がわかる存在なのだ。

もちろん、その“価値”の認識のし方が、現在とゴッホの時代では異なる。現在は、自分では内容がわからなくても、メディアが大きく取り上げているだけで価値があるのだと認識してしまう人は大勢いる。どこかの大ホテルチェーンの娘のように、何が凄いのかよくわからないが、“セレブ”だからという理由で、お近づきになりたい人が多くいるように。

村上隆への批判は、新しい創造物の宿命というより、どちらかと言えば、そうした“セレブ”をメディア等が必要以上にもてはやすことへの批判と同じで、ある種のやっかみもあるかもしれないが、「なんか違うんじゃないの」という、本能的な違和感から生じているのではないか。

 そもそも、18億円もの価格で取引されるアートを、100年前の印象派と並べて論じる「論法」じたいに、胡散臭さを感じる。

 ベルサイユ宮殿の展覧会のスポンサーはアラブの大富豪だという噂もある。現在、世界中のどの美術館も財政難だ。世界的アーティストの展覧会を大スポンサー付きで行うとなれば、喜んで引き受けるところはいくらでもある。ベルサイユだって同じだ。そして、大スポンサーは、アートを不動産等と同じように投資商品をして扱っている。作品が凄いかどうかではなく、投資商品として有効な性質があるかどうかを見抜くのが彼らの仕事であり価値基準だ。あらかじめ手頃な値段で仕込んでおいて、世界中の話題になるようなことをして価格を上昇させる。下手な広告よりも間違いなく対費用効果の優れた戦略である、メディアが喜びそうな話題づくり。10億円で買ったものが18億円で売れれば、それだけでもスポンサーになる価値はあるのだ。

 現在世界において、浅はかなメディアが安易に飛びついて騒ぐような“事件”の背景には、そうしたメディアの特性をよく理解した輩が仕組んでいるマネー関係の有象無象が横たわっている可能性が高いということは、いくらアタマでっかちになっていたとしても、アタマの片隅に置いておく必要があるだろう。評論家もまた、そのことを熟知したうえで、敢えて自分の利益のために、その流れに乗っているのか、アート業界のことは知識として知っていても、経済界のことはわからない世間知らずのお坊ちゃんなのか、人それぞれだ。しかし、メディアが喜びそうな“事件”(創造的な性質を持っているものではなく、タレントの男女関係や金銭トラブルのような意味において)の情報を上手に提供する者が重宝されるという構造のなかに私たちは生きているのだという現状認識を持つことが、様々な現状分析を読んだり自分でしたりする前に必要なのだろうと思う。