生命の全体像

まもなく『風の旅人』第42号(2月1日発行)が、書店に並び始めます。テーマは、生命の全体像〜The
Nature Of Order
〜です。

 プラチナプリントの第一人者で、現在ニューヨークで活動している井津建郎さんが、100kgを超える超大型カメラで30年にわたって撮り続けてきた世界の巨石建造物、ピラミッド、ストーンヘンジイースター島のモアイ像、マチュピチュ等から、誌面は始まる。

 石という無機質の物体を一つひとつ積み上げた古代の巨石建造物からは、何かしらのオーラが発生している。そのオーラは、宙空を絶妙のバランスで切り取る全体のフォルムが醸し出しているようでもあり、精巧なディティールのざわめきから発生しているようでもある。全体の設計図をあらかじめ用意し、その目的に向って作りあげる形ではなく、一つひとつを淡々と繰返して積み上げていく先にある確かさ。最終的に私たちの目に見えているフォルムは、部分が少しずつ積み重なり、積み重ねの繰り返しの先にそうなるべくしてなった状態であり、その繰り返しのリズムが、美しい音楽のように見る者に伝わってくる。生命の本質は、おそらく、そうした音楽的な波動のなかに隠れており、井津さんは、石という無機物を通じて、それを探ろうとしているかのように思われる。

 次に紹介する写真は、バングラデシュの若手写真家、アブドゥル・ワシフが撮ったバングラデシュイスラム世界。ワシフは、2001年9月11日のニューヨークテロ事件以降、世界のメディアがステレオタイプイスラム像を伝えていることに反発を感じ、イスラム世界の内側からイスラム世界を見つめる写真を撮っている。彼の家族や友人達もイスラム教徒だが、同じイスラム教徒であっても信仰に対する向き合い方やライフスタイルは様々だ。ワシフは、信仰に基づく人々の暮らしの全体像と一つひとつのディティールに対して、真摯に丁寧に向き合い、その多彩さと豊かさを見事にとらえている。

 現代社会は、メディアが伝える画一的なイメージによって人々の心が縛られている。本来の物事の在様は、それぞれが、それぞれの特殊な存在条件のなかで、なるべくしてなっていくものだが、現代は、社会の中に組み込まれている「普遍化と均質化の装置」(誰もが共有できるわかりやすい文脈のなかに落とし込まなければならないという強迫観念と関わっている)によって、ステレオタイプの概念がはびこり、その概念の呪縛にかかりやすい状況にあるように思う。

 すなわち、物事の可能性を自分の中で限定していき、その檻のなかに自分の心を閉じ込めてしまう。その状態は、一種の呪いのようなものだが、現代人は、それに気づいていない。たとえば人生の進路を決める際にも、普遍化と均質化の呪縛のなかで、自分の人生を既成概念の枠組みの中だけでしか意識することができない。そうした狭隘な意識が少しずつ自らの生命を縛り、生命力が減退していくのだから、呪いをかけられているといっても大げさではなく、呪いを解くためには、ステレオタイプの既成概念をはぎ取っていくことから始めなければならないだろう。

 そして次に続く写真は、現在、パリで活動を続けている韓国人写真家、ジェソン・バークだ。彼は、韓国で生まれ幼年時代を過ごしたが、9歳の時、父親の事業の失敗か何かが原因で、家族で再出発をするためにアメリカに渡った。日本でもよくあるように、ジェソンの父親は、ジェソンに対して、世間的にきちんとした学校を卒業し、世間的にきちんとした仕事に就くことを期待したが、彼はそれに従わなかった。そして、自分の自由の手段として写真を選び、アメリカからパリに渡り、現代、12年になる。

 ジェソンの写真には、ヨーロッパ人の自由意識と裏表にある孤独の厳しさと美しさが写し込まれている。韓国や日本は、欧米人に比べて、もともと非常に共同体意識が高く、その中の価値観に従属して生きていかなければならないという圧力が強い。そうした共同体社会に欧米から“自由”の概念が入って来た。欧米の場合、“自由”というのは、“自立”と、それに伴う“孤独”が表裏の関係にあり、“愛”もまた“自立”と“孤独”が土壌になっている。

 しかし、共同体意識と相互依存が根強い日本や韓国が、概念として輸入した“自由”は、“自立”や“孤独”を前提にせず、“自分の好きなこと”という程度のものに成り下がり、“愛”もまた“もたれ合いの関係”に、すり替わってしまう。

 ジェソンが、パリで撮り続けている写真からは、自由という人間の尊厳を何よりも大事にして自立と孤独を背負いながら生きている人間の哀しみと美しさが、伝わってくる。

 共同体のなかの相互依存を前提にした画一的な価値観に染まることを忌み嫌い、自由を獲得する為の困難な闘いの果てに、ジェソンは、彼ならではの表現に辿り着いている。日本や韓国は、無防備に欧米化を進めてきたために思想的にも混迷しているが、今改めて、欧米人にとっては当たり前のことである自由と自立と孤独と愛の関係を問い直し、だからといって日本や韓国に特有の共同体意識を安易に放棄するのではなく、その両方をうまく調和させる道を探し求めていく必要があるのかもしれない。

次に紹介するにのみやさをりという写真家は、撮るべきものが明確にある写真家だ。写真家にとって撮るべきものが明確だからといって、撮られたものが、誰にでもわかるものになるとはかぎらない。にのみやさんは、自分が抱え込む傷の深さと、写真に写っている人達が抱え込む傷の深さを伝えるとともに、その傷の深みから救い出してくれる写真を撮ろうとしている。彼女にとって、写真を撮る意味と意思は、そこにしかない。その傷は、社会のステレオタイプな文体で安易に片づけられてしまうわけにはいかないものだ。他の誰かが簡単に変わりにできることではなく、自分にしかわからない複雑精妙で大事なものを、自分自身の手で少しずつ形にしていくしかない。生き続けていくことさえ困難になるほど心に大きな傷を負いながら、なおかつ生きていくための力は、自分にしかわからない自分の心の内側の形を、少しずつ外に表していくことによって、少しずつ獲得される。自我を持つことで自然界から遊離した人間の根元的な生命の在様は、そのように自我によって分け隔てられた自分の内側と外側を、なんとかして一つに統合していこうとする試みを通して、表出してくるものかもしれない。

 この号の巻頭で井津建郎さんの巨石建造物の写真を紹介するが、現代の韓国で、生涯の大半を費やして狂ったように石を集め、石の写真を撮り続け、それらを展示する美術館まで作ってしまった人物がいる。石の一つひとつは、人間の様々な顔に見える。昔から、形が似れば霊が宿ると言われる。だから、人の顔形に似た石には僅かながら人間の霊が帯びている。さらに、その石が人の顔形に似ているからという理由で、その石を特別な思いで眺め続け、写真に撮っているうちに、さらに強い霊を帯びてくる。

次号の誌面で、そうした霊(いのち)を帯びた石の写真を紹介するが、それに対して作家の姜信子さんが、石が帯びた霊性を閉じ込めてしまわず、どちらかというと解放する言葉で、石と、石に心を奪われた人間と、歴史的世界のあいだを、神話的に響き渡らせている。 

第42号の最後のパートを締めくくるのは、中村征夫さんのガラパゴス諸島今森光彦さんのマダガスカルという、地球における原始の生命力を現代でも形として残す世界。そして、大山行男さんの、富士の霊性をまとった樹海の植物や鉱物。また、星野道夫さんが撮ったアラスカの野生動物達の美しい生命の様式。生と死、闘いとくつろぎ、勝者と敗者、それら人間の社会的分別では相反するような局面が、写真家の眼差しによって、どの一瞬も、生命の総ての活力が籠められた神々しいまで美として捉えられている。

 そして最後が、野町和嘉さんが撮った、生命が剥き出しになった人間の姿。現代、ニュースで独立の動きが断片的に伝えられるスーダン内陸部で、太古の昔から連綿と続けられてきた人間の営みを、野町さんはリアルに伝える。

 ニュースが伝える断片的情報は、知識として整理できても、あまり心が動くものではない。また、その大半が、伝える側の意図に添って枠にはまった見方を強いられ、印象付けられている。それらの印象は自分の心身の深いところに記憶されず、巷に溢れる雑多な情報と混ざり合い、渾然一体となった記号の渦となって、どこか彼方へと流れていく。

 ずっと自分のなかに残り続け、自分では意識していないものの自分の人生に影響を与え続けている記憶。そうした記憶は、自分が直接それそのものに触れるか、たとえそれができなくても、情報の媒介物が生命を帯びている場合にだけ、心身に深く刻み込まれる。

 『風の旅人』第42号は、「生命の全体像」という大それたテーマを扱っているが、雑誌という場で「生命」を伝えるためには、雑誌自体が、生命を帯びた媒介物として人々の記憶に働きかける力を持っていることが必要だと私は認識している。それが実現できているかどうかは、誌面を見て判断していただくしかない。