宮城県に入る。

 このたびの震災で、現在までのところ、7000人に迫る死者を出している最大の被害地、宮城県に来る。仙台市は、水道、電気、ガスのインフラは大打撃を受けたものの、街それじたいはイメージしていたほど損傷は感じられなかった。ガスに関しては、都市ガスの復旧はまだ時間がかかるようだが、プロパンガスを使っている飲食店などは、震災後、早くから営業をはじめいる。しかし、仙台から空港方面に海岸に向かい、名取市閖上(ゆりあげ)にくると状況は一変し、七千人の人口を誇った海辺の街が壊滅的な打撃を受けている。海から5kmくらいの所までは、ごく普通の家並みが続いており、テレビで報道されていた天変地異が別の世界の出来事のような風景が続くのに、突然、無数の車がひっくり返り、家がなぎ倒されている光景が現れて、びっくりする。今回の大地震が、津波が襲った場所とそうでなかった場所の差が、あまりにも大きいことを思い知らされる。距離にしたら、ほんの僅かな差であり、海岸から限られた場所の人間の営みの全てが自然の猛威の前に忽然と消え去ってしまい、そこから内陸部の広大な土地は、インフラを除いてはほとんと被害を受けていない。地震当時、仙台にいた人達も、地震は大きかったものの、海岸部でこれほどまでの被害が発生しているとは夢にも思っていなかったらしい。
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 その後、介護施設の取材を行う。そこは、ふだんはデイサービスを提供している所だが、ダメージが少なかったため、大地震が起こった3月11日の翌々日から、別の場所のグループホームに取り残されていた認知症の人達18名と、そのケアスタッフ、そして在宅で訪問介護を受け、自力では生活できない認知症の人10名が非難場所となった。スタッフ達は、24時間体制で交代しながら、今日まで非難してきた人達のケアをしていたが、元にいたグループホームの危険性がなくなったのと、仙台市のインフラが改善されたので、それぞれ自宅やグループホームに戻って行った。
 介護スタッフ達は、今、目の前にケアしなければならない人達がいることで、仕事に追われ、不安を感じる暇もなかったらしい。テレビの前にかじり付いて状況を見守っていた人達の方が、この時期、観念的に不安を膨らませていたことは間違いない。
 幸いに、その介護施設は、東京の本社と連絡が取れていたので、綿密に連絡をとりながら必要な物を東京から届けてもらっていた。東京本社の対応はきわめて早く、震災直後の13日には、新潟経由とかで仙台まで物質を送り届けるという敏速な動きをしていた。
 また、この会社は、宮城県内で大被害を受けた気仙沼やしづかわにも拠点を持っているが、11日の夕方から12日にかけて、仙台のスタッフが、被害地にある拠点のケアスタッフと、要介護の高齢者の安否を確認するために車を走らせ、12日中には完璧とは言えないまでも事態を掌握し、東京の本社と連絡体制を保ちながら13日から支援の為の具体的な体制をつくり行動を起こしていた。
 こうした民間のネットワークは、判断が早く、指示系統などが明確で、非常に敏速な対応が行えるものだと、今さらながら感心した。
 日頃、激しい競争に晒されている組織と、東電など、既得権に守られて俊敏に対応しなくても生きてこられた組織体質の違いは、危機に際して、明確に現れるのだと思う。
 これを書いている間も、大きな余震・・。船に乗っているみたいなゆったりとした揺れ。気持ち悪い。
 明日は、今回の津波で町が壊滅したしずかわや、津波と火災で深刻な被害がもたらされた気仙沼に向かう。