石巻と亘理町は、異なる様相で、酷い状況だった。

 昨日訪れた石巻は、酷い状況だった。
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 津波の規模自体は、四階建てのビルの屋上に避難していた人が腰まで水につかりながら手すりに掴まって助かったという南三陸志津川に比べて、建物の二階に避難していれば助かったという石巻の方が小さかったが、死者数と行方不明者数は、石巻が圧倒的に多い。3月28日時点で、2127人の死亡、2700人の行方不明は、このたびの災害で被害を受けた町のなかで最大規模だ。
 石巻には大きな製紙工場があり、人口そのものが多いということ。町が広範囲にわたっているということ。大規模な火災があったことなどが、被害の大きさにつながっている。また、現時点の推定で破壊された車が6万台以上ということだが、車に乗って逃げようとしている時に渋滞に巻き込まれ、身動きとれない状況で津波に直撃された人が多かったようだ。なかには車から脱出し、民家の二階に泳ぎつき、そこで寒さに震えながら一夜を過ごした人もいたようだ。
 今日訪れた仙台郊外の亘理町も28日時点で213人が亡くなり、150人が行方不明だが、津波警報が鳴ってから自動車で逃げようとして人々が多くて渋滞がひどかったらしい。私が話を聞いた人は、裏道を知っていたので家族5人でかろうじて逃れ、避難所に指定されていた学校に辿り着いて、そこで二週間、避難生活を送っていた。なぜ自動車で逃げざるを得ないのかというと、海辺からどこまでも平原が続いているので、徒歩だと波に追いつかれる心配があることと、歩けない高齢者を家族のなかに抱えている人が多いからだそうだ。
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 私が話しを聞いた人は、車で逃げて来たので、さらに内陸に入れば不自由な避難所生活をするまでもなく、親戚や友人宅に身を寄せるなど色々な選択肢があったのだが、津波の規模がそこまで大きかったとはわからず、一晩も経てば自宅の様子を見る為に戻れるだろうと思いながら、次の日も次の日も、待ち続けていたのだと言う。
 避難所にいる人達と、そこから数キロ離れた内陸部の友人や親戚のところに避難していた人達は情報量がまったく異なり、情報を持っていた人達は自宅の損壊が絶望的だと悟り、早い段階から周辺のアパート物件を確保していたそうだ。避難所にいた人が、10日ほどたってから、避難所を出てアパートを探そうと決めた時には、すでに空き部屋はなかったらしい。
 私が東京で東北の被災地の壊滅的な状況や、避難所暮らしの苦労や、原発の不安にさらされている時、被災地で家を破壊された人達が、早くもアパート探しをして仕事に復帰し、新生活を整え出していたと聞いて、その敏速な現実的対応力に驚いた。
 また、私が石巻で話しを聞いた人は、介護中に津波に襲われたが、カーテンレールにつかまって顔ひとつ水面から出し、介護中の高齢者を片腕で抱え込んで助かったらしい。その状況で、かろうじて呼吸をしている時、運良く目の前に畳が浮かんできて、その上に軽量の高齢者をよっこらしょと載せて、水が引くまで我慢したらしい。
 その人の自宅は、一階が破壊尽くされた。家の裏側に突っ込んできた数台の自動車には、まだ遺体が残されているが、町中の至るところに同じか、それ以上の状況が散在しているので、ガラクタの撤去と死体の収容ができていない。そのため、遺体がすぐ傍にあるその家の2階で、中学生と高校生の子供とご主人と一緒に家族四人で生活している。ご主人は、壊滅的な石巻の町中で、激しく損壊した家の前を黙々と片付けていた。その飄々とした雰囲気が、被災地で、何とも不思議な感じがした。

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 今回、いろいろな場所を巡り、被害の大きさ、そのなかで生死を分けたもの、生きのこった人達の現在の状況などを見たり聞いたりしたが、それらを単純化して語ることはできない。メディアでは、同じ衝撃的映像が何度も繰り返され、連日のように避難所の苦境が伝えられるので、現地に対するイメージが、それ一色に染められてしまう。しかし、メディアが伝える状況は、事実を切り取ったものには違いないが、それとはまったく様相を異にする多様な状況が傍らで展開していることも事実だ。
 海外の戦地においても、テレビ映像で爆撃のシーンが放送されると、国中に爆弾が落ちているようなイメージを抱いてしまうが、実際にその国を訪れると、すぐ近くの町や村で、子供達が無邪気に遊んでいたりする。
 それと同じで、青森から千葉に至る500kmにも及ぶ広範囲で津波の被害が発生したが、海岸部から一歩内陸部に入れば、まったく平静な日常が繰り返されているのも事実だ。ガソリン不足とか、コンビ二やスーパーの商品不足があり、それまでとは違う日常であることは間違いないが、それでも人は、どんな状況でも、淡々と生き続けるものだということが実感できる。
 人類史のなかで、幾つも黙示録のような光景が伝えられている。しかし、その時代に、地上の全てがそうなってしまったのではないだろうと思う。
 人類の記憶に深く刻み込まれるような事態が起こったことは確かだろう。しかし、その事態に全ての人が巻き込まれてしまったのではなく、自分に直接降り掛らなかったものの、他人事ではすませられない思いが、その事態を共有しようとする意識になり、自分自身の価値観を変容させ、人類全体の記憶として後世に伝えようとした者がいたのだろう。
 起こったことをなぞって伝えるのではなく、多くの人が自らの体験とし、自らの価値観をふりかえるきっかけになるように、どのように伝えていくか。
 何が正しいか間違っているかではなく、事態の捉え方は、人それぞれ違ってよいのだが、どんな事態も、それを知ってしまったかぎり、自分の人生に無縁にすることはできない。意識しようがしまいが、きっと自分の潜在意識に残る。ならば、とことん事態を自分ごととして捉え、考え、その上で自分の中から何をアウトプットできるか、自分自身で確認したいという思いがある。
 原発問題を含めて今回の事態は、人がどうのこうのではなく、自分ができることを考えて実践していく大きなきっかけであることは間違いないだろう。誰にとっても。