今という時代と、表現

3月11日、震災で日本中が大混乱に陥る直前、親しくしている一人の写真家から、「今、表現に携わる者が取り組むべきことは?」という問いがあり、以下のような返信をした。

その時に返信した内容については、その後、振り返ることはなかったが、今日、その写真家から手紙をもらい、もう一度あらためて読み直してみた。

3月11日が起ころうが起こるまいが、現代社会において表現者が取り組むべきことは変わらないと思うけれど、3月11日以降は、その時に考えたことが、より強度を増したように思う。

 

「今、本当に表現者がすべきこと。を考えるうえで、ならば“今”って、どういう時代なのかという問いを立てる必要があると思います。政治や経済のことなど、今に対して様々な定義があると思いますが、敢えて端的に言うならば、「都市化」および「都市的思考」ということになると思います。

都市というのは、大勢が共有する認識から大きく外れた事態が生じないように様々な約束事によって整えられている場所です。人間が約束事によって管理する都市世界に生きる私たちは、物事を、じっくりと見る習慣はありません。物事の姿形を目に写すことで確認し、安心するだけであり、安心することさえできれば、それ以上見なくても、とくに不自由はありません。人間の管理と、その管理をもとにした秩序に対して信頼があるからです。 

その信頼は、法に基づいており、秩序を揺るがす可能性のあるものを法によって排除しようとする動きも、そこにつながっています。

つまり都市世界では、人々の認識から大きく外れるものを、あらかじめ排除しようとする圧力が働く。その結果として、テレビ番組などにおいても、無難ではああるものの、どこか物足らないものが増える。テレビ局が悪いのではなく、都市化のニーズがそうさせるのでしょう。

現代社会を、別の言い方で捉えるならば、「強度なレッテル化」、かもしれません。人間は、多くの場合、レッテルを貼って物事を整理し、自分が納得しやすい状態にして吸収し、安心する傾向があります。また、他人や物事に対する時だけでなく、自分自身に対しても、肩書などを通じて「そういうものである」とレッテルを貼り、人生の進路における惑いを抑えようとすることもあります。

レッテルをはがしてしまうと、レッテルによって整理づけている人間関係や世界が混沌とし、自分がいったい何ものかもわからなくなる不安があります。この不安に耐えられず、安易にレッテルを貼って、わけのわからないものを拒否するという態度が、地球上に様々な対立を生みだしていると言えるのではないでしょうか。

都市化とかレッテル化によって、人間は自分に都合の良い環境を作って生きているわけですが、こうした都市化やレッテル化によって殺ぎ落とされるものがあるので、当然ながら、歪みも生じるでしょう。それは自然環境問題とか、社会的に大きな声でわかりやすく叫ばれることではなく、1人ひとりの生と死の問題に関わってくる問題だと思います。

人は、他者や環境世界については、レッテルによって、わかったつもりになってごまかすことはできても、自分の生と死に関しては、「そういうもの」とアバウトな認識でレッテル貼りをしてすませられないということを、心のなかで知っています。

そうした自分の中の不安から眼をそらそうとすればするほど、世の中のレッテルに依存していくようになる。それは何も、企業社会の役職にかぎらず、たとえば写真などの表現業界においても、そうしたレッテルを求める人が多くいます。そうした地位から遠い人でも、自分のやっていることを、例えば「日本の伝統的文化」とか、権威のある大義名分と結びつける場合も同じ。賞を欲したり、権威ある評論家に褒められることを欲したり、政治家も企業人も、表現者だと自称している人も、種類が違うだけで、似たようなところがあります。けっきょくは、レッテル依存、なのだと思います。

今という時代の表現者にとって本当に大事なことは、こうした虚無の時代を、あげつらうことではなく、レッテル化を許さない、新たな回路を指し示していくことだと思います。

レッテル化を許さないものは不可解でもあります。その不可解さを、都市化とレッテル化に拘泥している人は拒むわけですが、不可解は畏れの土壌であり、それを拒むのではなく、丁寧に付き合っていくことで始めて、畏れの感覚は、それを美しく思う感覚と同根であることがわかってくるのではないかと思います。

しかし、レッテル化を都合良しとする勢力(マスメディアなどは、レッテル化の頂点に立つことで既得権を確保しています)は、そうした流れに抵抗します。レッテル化が崩れ、それぞれが丁寧に物事を付き合うという状況になると、彼らのイニシアチブが崩れるのです。

レッテル化は、レッテルを作り配布する側が、常に価値観をつくりだしていく優位性を確保できるわけですから。

おそらく本当の表現者というものは、そうした状況に敢然と切り込んでいるのではないでしょうか。

人間が連綿とつないできた芸術表現は、畏れを美に昇華させ、人間の心を鷲掴みにし、不可解なものから逃げがちな人間を、不可解なものの中に引き込む力があります。時代を超えて人間の心を惹きつける芸術は、例外なく、どこか畏ろしいものを秘め、美しい。

畏ろしさは、人間の管理できないものがあることを歴然と知らしめることですが、そのことによって不安にさせるだけでなく、美しさの力によって、その不安を不安のまま受け入れ気持ちにさせることができる。 

「美は、必ずしも客観的ではない。美しさの奥行きをつくるのは、見るもの自身の魂の陰影である。」という言葉を、小説家の日野啓三さんは残しています。

レッテル化の社会のなかにおいては、美は、客観的にカテゴライズされています。

この時代、そのカテゴライズのなかで様々なアイデアを出す人は、消費社会に受け入れられやすく、知名度もあがるでしょうが、そうした行為は、カテゴライズ化をさらに推し進める力になるだけでしょう。

後の時代につながる表現者がやるべきことはそうではない、と思います。

美は、自分の外に客観的に存在しているものではなく、それを見る人の魂の陰影であることを、わからしめること。自分の眼でじっくりと見ることの喜びと、日頃、自分が自分の眼で丁寧に見ていないことの羞恥を少しは感じさせること。凄まじい力をもった表現は、時に、それに触れる者を自己嫌悪の奈落の底に突き落とすものもあるでしょう。そうして、不可解を不可解のまま受け入れ、悶々としながらも投げやりにならずに生きていく胆力を養っていく滋養になるようなものを作り続けていくこと。

表現者にとって一番大切で必要なことは、そういうことだと私は思います。佐伯剛」