自分に選択できることと、できないことの狭間で

 今から5年前に一人の歌手の女性をインタビューして、風の旅人の第22号で紹介した。ここ数日、定期購読の返金の手続きの為に連絡のない人達に電話
をしていたのだが、電話口で「娘がお世話になりました」と言われて、最初何のことかわからなかったが、あの時の歌手の母が、定期購読してくれていたのだった。それをきっかけに久しぶりに彼女のCDを聴くと、今の自分にぴったりで胸に染みてくる。そして改めて、その時のインタビュー記事を読んだのだが、
自分が書いた文章なのに、まるで自分に対して書いているように思われてきた。


 あの時も書いたことだが、たとえば故郷とか家族とか、自分が生まれた時から自分の中に深く根ざしているものがある。それらに対する思いは、好きか嫌いという以前に自分にとってどうにもならないものであって、それらを大事にできるかどうかは自分を大事にできるかどうかという感覚とつながっている。だから、自分の家族や国に対して受け入れ難い気持ちになる時は本当に辛いのだ。その辛さを持たずに国や家族を非難する人がいるとすれば、それは実態のない情報世界(名誉とか肩書きとか世間体も情報世界の一つ)にとらわれてしまい、感覚が麻痺してしまっている。

 家族や自分が生まれ育つ国は自分で選ぶことができない。それらは自分との境界が曖昧なもの。それに対して、物心ついた時から自分が探し、自分が選び取る世界というものがある。誰かに決められたことを行うだけではなく、自分で選択していくこと。人の人生の在り方は、その配分で様相が異なってくる。自分で選
択していく強い意志を持つ事は軋轢や葛藤も多い。しかし、それらの障壁に対して本気でぶつかっているうちに自分のスタイルができてくる。個性というのは、すぐに色あせてしまう小手先の差別化ではなく、その人の選択と、選択するがゆえに生じる軋轢を通して身に付けていく生き様のことだろうと思う。プ
ロセス全体が、その人にふさわしい在り方となっているがゆえに、どんな断面を切り取っても、世間の標準化された枠組みに簡単に収まってしまうものが、こぼれ出ない。

 自分の中の譲れない部分を大事にする生き方は、軋轢や葛藤、困難が多いがゆえに、傷つきやすいけれど、その分、自分の力の及ばないところも知り、そこからくる恩恵とか助力に敏感になる。それらの恩恵は、自己の限界を痛切に知っているものにとって救いとなる。自己の器は小さいけれど、世界のあり
とあらゆるものとの関係性の中から生じてくる恩恵は、今現在はどういうものかわからなくても、いずれ必ず邂逅できる可能性がある、と思えるからだ。しかし、それらと邂逅する為には、自分という場を整えていなければならない。整えていなければ、幽かな兆しを見逃してしまうだろうと心が鋭敏になる。

 自分の現実というのは、自己が描く設計図によってできてくるのではなく、自分が選択できるものと選択できないものの狭間に生じる無数の関係性に対する自分の所作で決まってくる。関係性は常に流動的で、展開が変わるたびに新たな軋轢が生じる。そうした時、結果はどうであれ最善の手を尽くせばいいと自分
が納得できる状態に自分という場を整えること。そのように整えられている自分の場から出てくるものこそが、その人の個性と言えるものだ。個性は、社会が押し
付けてくる型通りでないことは当然だが、かといって自己意識ばかりが過剰な、社会に対する反発姿勢だけからも生じない。なぜなら、自分ではあまり気づいていない
が、自分の自己意識自体が、この時代の産物でもあるからだ。

 自己意識は、国や家族と同じように、選択の意志や好き嫌いとは関係なく、この時代に生きているかぎり、自分の中に宿ってしまう。

 国や家族や自己意識という選択不可能なものと、自分が探し、選び取って行くもののあいだを自分なりの方法で結びつけて、その行いじたいが人生の次の一手となるような在り方。その在り方が個性だ。

 どんなに過激な批判精神でも、人生の次の一手が、そこから全く感じられなければ、それは批判じたいが目的化されているだけであり、そのように画一的で
閉じた回路の積み重ねは、恩恵と邂逅するデリケートな機会すら見失わせ、有り難さにも鈍感となり、人生や世界の可能性を、どんどんと狭めていく。その苛立ちを、名誉欲(=達成感、到達感の獲得)などで昇華させようとする人もいるが、その種の煩悩は果てしない。

 人生や世界の可能性は事物との出会いによって劇的に変わってくる。その邂逅が、たった一つの歌や写真や言葉で起こることも多い。

 表現の本質は、そうした邂逅にある。つまりそれは、新たな可能性に通じる何かを世界に届けることであり、いにしえから偉大な表現者が届けてきたものは、そういうものだったのではないかと思う。

 と、こうしたことを書くと、「すぐにそれは何か? どうすればいいのか?」と即席の答えを欲する人が多くなっているのは、日本の教育制度やテレビのクイズ番組の影響なのか。

 おしなべて、知恵の処方箋とか、解りやすい答えというのは、頭の中の情報操作にすぎず、情報操作によって何かを作ろうとしている人は、けっきょく現在の情報過多社会の中で堂々巡りを繰り返すだけであって、そこから新たな可能性など出てくる筈がない。

 束の間の情報操作ではなく、プロセスの全体と付き合う根気なくして、しっかりとした芽も幹も枝も出てこない。ゆえに、ちょっとした環境変化でダメになってしまう。環境変化に対して弱くなって、除草剤や農薬などで対症療法することを繰り返す現代の農業と同じこと。

 私は、風の旅人を、除草剤や農薬などのような処方箋ではなく、堆肥にしたかった。44号までの一冊ずつを積み重ね、それらが腐っていく時間が必要だ。だから化学肥料のような即効性はない。

 いずれにしろ、近代の処方箋に毒された私達は、自分自身が近代的価値観に基づいて品種改良された種であるという自覚から始めるしかないのかもしれな
い。この時代に生まれ育ったことは、選択できなかったこと。でも、品種改良された種だからと開き直って農薬と化学肥料という処方箋を求め続けるのか、時間をかけて土そのものを改良して豊かにしていく努力ができるのか。これから自分で選択できること、選択すべきことは、それに尽きるのだろう。