文化庁主催のメディア芸術祭の部門会議に出席してきた。大きなテーマとして、「地域活性と10年後のメディア芸術」ということで、そのうち「新しい才能を社会につなげる」という趣旨の話し合いの筈だったが、一部を除いて全般的な話の内容が、どうにも古いものに感じられてしかたなかった。とくに出版メディア会社に所属する出演者の話が、10年以上前のものだった。彼が言うような、一気にメディアを動かして、大勢の人を動かして、お金に結びつけるという発想は、まさに大衆メディアの枠組みのなかにいる人間の発想だ。彼は、芸術も文化もお金に結びつけなくては意味がないと力説するが、その論理は単純明快なために反論しずらいものがあるが、それ以前の問題として、どの程度のお金なのか、また、どのようにしてお金に結びつけるのかという方法じたいを議論しなければならないのだ。
メディア効果で一部の美術展覧会が入場できないほど人が溢れるような結果となり、そのことを彼は成功話として取り上げていたが、果たしてそれが成功なのだろうか。日本の大衆メディアは、話題になるようなことがあって、わかりやすい切り口があれば、みんなそれに従う。結果としてスポットが当てられたものの露出は大きくなり、人は集まるが、ちょっと話題だから行ってみたという人が多すぎて、きちんと見たい人は見られない。また、一つの場所に人が集中しすぎて、他の場所が閑散としてしまう。メディアが取り上げなかったもののなかにも素晴らしいものがあるのに見落とされてしまう。大衆メディアは極端な動きを作り出し、大勢の人間が集まったことに対して自分達の力のおかげであると誇らしげに言うが、そんなものはどれか特定の媒体の力ではなく、みんながみんな同じようにした結果にすぎないのだ。
もうそろそろ、我々一人ひとりも、大衆メディアに煽られるようにして行動する段階から卒業すべきだろう。
地方の活性化においても同じで、地方の祭りに対する県からの助成金はメディアの露出度によって違ってくるという話を聞いたことがあるが、もしそうならば、ひどい話だ。祭りの主催者は、メディアに対してペコペコして、メディアの横暴を受け入れてしまう。結果として、祭りの聖性は失われて骨抜きになってしまい、祭りじだいの本質が失われ、だんだんダメになってしまう。メディアに取り上げられ、すぐにお金に結びつき、人が集まればいいという問題ではないだろう。メディア効果などは、その時だけの盛り上がりで終わってしまい長続きしない。
大衆メディアが右へならへの動きをすることによって特定のものだけに集中してしまう方法ではなく、いろいろな媒体経路で、いろいろなものの魅力が発見されるようにするにはどうすればいいのかを考えていった方が、よほどマシだ。
今回の部門会議でよかったことは、瀬戸内海に浮かび弓削島の取り組みが、このプロジェクトを始めた兼頭一司さんによって具体的に紹介されていたことだ。この取り組みは非常に興味深かった。大衆メディアに取り上げてもらうという発想ではなく、島の人たちの意識改革と思考や感性の成長を基本にしようとする発想がよかった。お金は大事だが、派手に儲ける必要はなく、出費を抑えて、持続的発展ができるような仕組みを作ればいい。地域活性化という旗印のもと、ハイエナのようにたかる自称クリエイターとか口のうまい企画屋や広告屋に頼らず、島の人間がクリエイティビティを発揮するようにリードしていくこと。
都会には抽象的な思念が渦巻くばかりだが、地方には、具体的な物がある。具体的な物は、アイデアやクリエイティビティの源泉だ。それに比べて、抽象的な思念から発生するアイデアは、計算高さが隠されている。
また会議のなかで、地域の活性化と芸術表現の両方に関わってくる言葉として、トム・ヴィンセントが発した言葉に共感した。「1000人の熱烈なファンが年間に1万円を支援することで、才能のある表現者が生きていける。」
世間に媚びて、大衆メディアにすりよって数万人のファンをつくっても、すぐにメディアやファンに飽きられてしまうようでは何にもならない。
1000人のファンで表現者が生きていくための仕組みこそが、これから10年を考えていくうえで重要なことだろう。そして、それは地域活性化にも通じる視点と発想だと思う。
今回の部門会議では、この部分に焦点をあてて、もっと話し合ってほしかった。メディア的発想の、抽象的で粗い現状分析および現状把握をもとにした、ツールは変わっても発想として10年前と変わらない話よりも、その方がよほど有意義だったろうと思う。