古いグーグルと、新しいグーグル

 新しいものは、常にいいものとは限らない。電気製品やインターネット関連のサービスといった最新の技術を売り物にするジャンルであれ、そういうことがある。たとえばデジタルコンパクトカメラの分野において、キャノンのPowerShot G10という商品があったが、新製品としてG11が出た時、搭載されたCCDの画素数が1470万から1,000万に下がった。それに対してキヤノンは、「高感度タイプの1,000万画素CCDと映像エンジン『DIGIC 4』の組み合わせにより、大幅なノイズの低減とダイナミックレンジの拡大を実現する『デュアルクリアシステム』を搭載しています」と、よくわからない説明を行なっていた。画素数の競争の無意味さを一部の評論家が唱えていた時だが(もしかしたら、それもカメラメーカーの息がかかっていたのかもしれない)、結果的に、それまでの画質の深みがなくなった。また液晶モニターも、バリアングルタイプで可動するものになったが、その分、液晶サイズは小さくなった。そしてバリアングルは決して使い勝手のよいものでなかった。CCDとか液晶は、コストがかかる部分なので、玩具的な機能を加えることで消費者を喜ばせて、コストダウンを行うというのが本音だろう。高級カメラの代名詞だったライカも、1960年頃に発売されていたM3が、シャッター音、ファインダーに使っていた硝子の質、ボディの材質などが最も優れていて、使い勝手はともかく、メカとしての完成度や物そのものの愛着度は高いと、カメラ好きは言う。
 つまり、ブランドイメージを確立するまでは、企業として質の向上のために投資を続けざるを得ないが、いったんブランドイメージが確立してしまうと、それからは、いかにして効率よく利益を獲得していくかが企業の戦略となり、できるだけ安い素材で同じ機能を発揮するものを探し出して代用するものが多くなる。とはいえ、何らかの形でメリットをアピールしなければ消費者の心は離れてしまうので、そのバランスが鍵となる。企業もまた、生き残りをかけた闘いをしなければならないので、そのあたりが苦心のしどころだ。
 話は変わるが、少し前までは、グーグルって凄いなあと素直に思っていた。使い勝手がよくて品のいいインターネットサービスを無償で提供してくれている。私が、これまでFacebookではなく、google+にしていたのも、画面に広告が露骨に出てこないことが理由だった。グーグルは、ガツガツと利益を追求せず、全ての人に貢献するという企業理念が、サービスの背後にしっかりと流れているという気がしていた。そして、検索エンジンだけでなく、GMAIL、ドキュメント、ドロップボックスなど、仕事でもプライベートでも、グーグルのサービスが欠かせないものになっていた。
 しかし、少し前、GMAILの新しいデザインが提供された時、期待していたのに、使う側にとって良くなったという改善はほとんど見られず、逆に使いにくくなったし、デザインも醜くなった。この改善は、広告の為ということが、あからさまに感じられた。
 また、1月末に、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、グーグルのエンジニアでプレーイングマネージャーの人が紹介されていた。テレビカメラが初めてグーグルの中に入るということで楽しみにしていたが、内容は、つまらなかった。グーグルは、プログラマーの天国で、超一流の人が集まってくるのだと持ち上げ、無料の社員食堂のことや、リラクゼーションの為に仕事場に置かれた様々なグッズが取り上げられていたが、超一流の人は、十分にお金を稼げる筈なので、社員食堂がどうであろうが、たいして関係ないという気がした。毎日5千円のランチを食べても月に10万円程度なのだから、超一流にとっては、僅かな金額だ。
 それはともかく、番組の中でつまらないなあと感じたのは、プロジェクトメンバーの紹介で、日本のプログラマーのトップクラスが集まっていると自己宣伝したうえで、何度も何度も自分達の仕事が「世界を変える」と主張していたのだが、シリアスな顔で取り組んでいたことは、ワープロ変換の技術的な内容だった。たとえば、「さわほまれ」と打てば、インターネット上に溢れている名前の中から、最も使用頻度の高い澤 穂希という漢字が素早く表示されるというものだ。それはそれで便利で素晴らしい技術だし、素人には想像もつかない大変さが背後にあるのだろうと思う。でも、その仕事の理念がよくわからなかった。それは、「便利」ということ以外に、何か特別なことがあるのだろうか。インターネットゲームで業績好調のGREEという会社も、テレビに登場した時、「世界を変える」と息巻いていたが、その仕事の内容が、「世界を変える」ものだとはどうしても思えない。グーグルもまた、キャッチコピーのように「世界を変える」という言い方をするが、その抽象的な自己宣伝じたいが、テレビコマーシャルだ。これまでグーグルは、敢てそんなことは主張しなくても、グーグルのサービスを使っている人々が、何かしらの形でグーグルに敬意を払っていた。それでよかったのだ。しかし、グーグル当事者には、それではよくない事情が発生しているのだろう。テレビカメラが初めてグーグルの中に入ったのは、テレビ側の功績ではなく、これまでそういう方法で自分のことをアピールするのは品がないと考えていた(もしくは、テレビという旧メディアから実権を奪い取ろうとする勢力のリーダーとしての誇りがあった)グーグルの方が、テレビ側に歩みよっただけだろう。
 そのように、なんだかグーグルが格好悪く見えてきたタイミングで、グーグルは、ネット上で提供する60以上のサービスで、個別に設けていた個人情報の取り扱い指針を一本化した。検索や動画閲覧の履歴など、各サービスを通じて集まる個人情報を一元管理して広告事業などに生かすのが狙いであり、プライバシーの侵害や個人情報流出につながりかねないとの懸念が噴出している。 
 グーグルは、そのように一本化することの理由を、検索、GMAIL、ユーチューブなどの利用状況を分析することで、その個人の目的に合った検索結果を表示できるのでユーザーのメリットになるという言い方をするが、それは詭弁であり、個人情報を掴んでピンポイントの広告戦略を仕掛けるFacebookにインターネット上の広告の雄の立場を脅かされているのが、その理由らしい。 
 そうした金儲けの話とは別の問題としても、個人の目的とかテイストをはかる目安が、気まぐれも含めて何らかの形でグーグルのサービスの中にアウトプットされた瞬間、その関連事項(広告)が次々と提示されるというのは、ユーザーの為になることだとはとても思えない。それは、自分自身で何かを探すというプロセスのなかで、別の価値あるものを見つけるというセレンディピティの機会を減少させることになる。つまり、人生の可能性が狭まり、何事も予定調和になっていく。そのように広がりのない人生が面白い筈がない。
 グーグルは、もしかしたら、仕事も人生も、セレンディピティの機会を減らしてでも利便性を追求した方が良い事だという、遊びのない偏狭な思考に陥ってしまったのだろうか。 
 ワープロで「さわほまれ」と打って、すぐに有名な澤 穂希と解答が出ず、他の無名の澤ほまれと出逢うことになってもいいではないか。人生は、最大公約数だけでできていない。多くの人が平均的に求める商品を並べたコンビニだけで買い物をしていれば、いい生活ができると思ったら大間違いだ。
 グーグルは、革新的な技術で大成功した。そして、世界中から知能指数が高くて優秀な人間を多く雇用した。しかし、革新的な技術を創造する優秀さと、すでにできあがった優秀な技術やシステムに細かな変更を加え続ける作業を黙々と実行する優秀さは、似て異なるものだ。それは個人の資質による場合もあるが、グーグルほど大きな成果を収めた企業が、常に革新的な社風を保ち続けることじたいが奇跡で、できあがった技術やシステムの改良に勤しむようになることは、多くの会社同様、仕方がないことかもしれない。しかし、それに伴って創造性に長けていて、創造的な仕事に取り組めることを期待して集まってきた優秀な人材は流出するようになり、次第に閉塞していく社内環境の中で反復的改良に打ち込める人が多く残り、ますます、企業風土は、その傾向が強くなっていく。そう考えると、今までは安心しきって、GMAILDropboxやドキュメントといった、グーグルのクラウドシステムに依存しきっていたことが、急に不安になってきた。
 いったん企業体質が守りに入ってしまうと、そこから生まれてくる新しいサービスは、ユーザーの為という謳い文句で、企業の利益の為というのが露骨になってくる。
 新しいものが前より優れたものであるという神話は、素直に信じられない時代になっている。後退しないために必要なことは、いったん獲得したものを、いつでも捨て去れるという、執着のない前向きさなのだろう。
 
グーグルを辞める理由とは

http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0805/17/news003.html

マイクロソフト入りした元グーグル社員が・・、→http://longtailworld.blogspot.com/2012/03/why-i-left-google-docjamesw.html?utm_source=feedburner&utm_medium=twitter&utm_campaign=Feed%3A+LongTailWorld+%28Long+Tail+World%29