別の旅を始めることの必要

 
 表参道HILLでやっている写真ブックフェアに行こうと思ったけれど、風がきつくて花粉も飛び回っているだろうから、家で、静かに音楽でも聞きながら、本を読む事にした。
 今後の参考にという気持ちもあるので様々な写真本が集まったイベントに行っておくべきかなという思いもあるが、そういう気持ちででかけて行っても、期待が裏切られる事が多い。膨大な商品が集められるフェアは、当然ながら、それを集める役割の人がいるわけだが、その人達の視線の先に何があるのかによって、内容は大きく左右されてしまう。
 フェアに限らず、展覧会におけるキュレーター、雑誌における編集者も同じであり、現在のように情報過多の時代において、情報の交通整理をする人が、いったい何を考え、未来に何を見ているかということがポイントになってくる。
 商業施設で行われて集客数が気になるフェア関連や、スポンサーの顔色をうかがわなければならない雑誌などは、多くの場合、未来なんか見ていない。現在の空気をなぞり、現在の空気の中で生きている人達に、「いいね」とか、「そうそう」など、共感を得たいという気持ちでやっている傾向が強い。
 それの善し悪しはどうでもいいのだが、世の中に、あまりにもたくさん「いいね」とか「そうそう」が溢れてしまい、なんだかとても気持ちが悪い。電車に乗っていると、テレビモニターを使った広告が流れていて、有名タレントがゲームをしながら、「ヤッター」とか、「うん、それでいい」とか独り言を呟きながら、自分の世界に没頭しているシーンが流れる。そういう感覚で電車の中でゲームをしたり化粧をしたり、歩きながらスマホに没頭して周りが見えていない人は、そのように偽装された有名タレントの自己中の存在感に、きっと共感するだろうし、そういう狙いがミエミエだなあと思う。現代という風潮の中で、その種の消費経済の麻痺洗脳状態に陥っている人は、広告が仕掛けてくることに対して防御が甘く、ミエミエだとは感じず、「わかるわかる、その気持ち」というふうになるのだろうか。
 フェアを成功させたり、雑誌の販売部数を増やしたりすることは、結局、そういうことになってしまう。それはつまり、睡眠状態のまま現代の空気をさらに膨張させることであり、自分の置かれている状態を俯瞰する覚醒状態に導くものではない。
 眠っている状態というのは、未来につながっておらず、浦島太郎のように、未来のある瞬間、覚醒した時点で、過ぎ去った時間に愕然とするしかない。
 未来は、自分の状態や今の状態を俯瞰できる視点の側にあると思う。ただ問題は、今という状態からすれば彼岸にあたるその側から、此岸に対して、どういう回路を作り出すかなのだ。つまり先まで行って、戻ってくるということが、できなければならない。自分ではなかなかできないので、そういう体験が得られるもの(表現)に出逢うことが肝要だろう。
 新しさというのは、きっとそういうことなのだろうと思う。
 現代の風潮のなかで、現代の風潮をなぞったものを追いかけ回しても、堂々巡りするばかりえ、未来には進んでいかない。
 むしろ、少し以前のものの中に、未来につながる回路があるのではと感じるものがある。商業的フェアとかでは決して取り上げられず、人知れず隠れていたもの。それが新しいのは、近代という時間が、ずっと同じことを繰り返しており、数十年前も、現代と同じ問題を抱えていたからだ。
 問題はずっと継続しているのに、現代に近づくほど神経が鈍麻してしまい、その問題を問題だと思わなくなっていることが多く、大きな事件が起こってから気づく。でも、その問題は新しいものではなく、とっくの昔から、継続していたもの。原発問題などは、その典型だと思う。
 にもかかわらず、その問題が社会の表面上にのぼってくると、いかにも新しい問題であるかのような騒ぎ方で、それ関連のフェアや特集が行われたりする。
 問題の根は、現代の風潮に染まりながら鈍麻してしまう感覚そのものにあり、原発であれ何であれ、ムードを盛り上げながら人を思考停止状態に導いていく、消費経済が得意とする洗脳的アプローチこそが、問題の根をいっそう深めて見えにくくするのだ。
 未来に一番近いところにあるのが現代だと思うのは錯覚であり、現代の情報過多は、むしろ、未来を見えにくくしているとも言える。現代を俯瞰する為にも、現代から少し距離を置いた時点に立ち戻る必要があるかもしれない。
 自分の中で、今やっていることを終わらせて、別の旅を始める必要があるという自覚を持つことから始めなければならない。