報道と芸術のあいだ

 吉祥寺美術館で行われた石川梵さんのトークショーを聞いてきた。トークショーの最後に行われた質疑応答で、美大に通っている人が、今回のような震災写真と芸術写真の違いについて質問していた。石川さんの写真が震災地の状況を撮った写真でありながら、単なる報道写真とは違って美が表現されていたから、戸惑いもあって、そういう質問が出たのではないかと推測する。
 報道写真は、こういう出来事がありましたと、出来事の一部を切り取って伝えれば、それで成立するところもある。その伝え方は、石川さんも言っていたように、震災地の悲惨な状況を見せ、悲しみを見せ、その後にボランティア等の活躍を伝え、最後に笑顔で締めて希望につなげるという、あらかじめ出来ているシナリオに写真を当てはめていけば、見る人から不満が出る事もない。伝える側も見る側も、何も複雑なことを考える必要はない。
 報道には報道の役割がある。しかし、石川梵というフリーの写真家は、会社組織に所属してデスクの管理下にあるわけではないので、そういう出来レースをする必要はない。(フリーなのにシナリオ通りの写真しか撮らない人もいるが、そういう人はメディアと相性がいいので、テレビ出演なども多くなる)。
 シナリオ通りでない写真は、見る人に、得体の知れない感覚を覚えさせる。だから、夕飯中の番組には不適合だし、番組の後の次のコマーシャルにもつながりにくい。
 たとえば、石川梵さんの写真は、破壊のシーンゆえに恐ろしさがあるが、そこに美も感じられる。そういう写真を見ると、美大でアートを学んでいる人は、わけがわからなくなるのだろう。
 また、被災地の人達は、報道写真の場合、たとえ死体が写っていても、そんなに辛さは感じないが、石川さんの写真を見ることは非常に恐いそうだ。
 被災地の人が石川さんの写真を見ることが恐いのは、そこに自分が体験したリアルな感覚が写っていて、その時の気持ちが蘇るからだ。そして、その恐さは畏怖であり、美とも通じている。人間だけが生きているのではなく、地球も生きている。ふだんは忘れているけれど、その真実の前に、時として人間は打ちのめされる。
 人間だけでなく地球も生きているという真実に実際に打ちのめされた人にとって、その真実に向き合うことは、非常に恐ろしいことだと思う。しかし、だからといって、人間にだけ都合の良い視点で、希望(陸前高田の松など)を前面に押し出しても、お茶の間受けするかもしれないが、根本的な問いとはならない。
 これだけ酷い目に合わされ、悔しくて悲しくてしかたないけれど、それでも海に感謝していると漁師さんは言う。辛いことや悲しいことを安易な希望で適当にごまかして忘れたふりをするのではなく、悲しみや辛さをしっかりと胸に抱きかかえたまま、生きている地球の懐で命あることの恵みに感謝しながら生きていくこと。畏怖の念を抱きながらも感謝し前向きに生きる力と、美の力はつながっている。芸術は、そうした美への回路だ。だから、被災地の人が恐ろしいけれど美しいと感じる石川梵の写真表現は、報道ではなく、芸術表現なのだ。それはただ見た目の綺麗さとか奇抜さを争っている今日風のアートというジャンルではなく、人間が生きていくうえで、とりわけ生命そのものを問わざるを得ない非常時において、力を与えてくれる芸術なのだ。
 最近では、芸術よりもアートという言葉の方が気楽に使える。単なる見た目の美しい物作りや、自分本位の感覚で自己主張をする実験的試みや、デザインセンスの競争は、芸術という言葉では面映いが、アートという言葉ならば、商業用途も含めて使いやすい。ようするに、オートメーション工場による画一的な製造ではなく、個人のセンスが反映されさえすれば、全てアートをいう言い方ができてしまうのが今日的なアート事情なのだ。
 そうしたアート状況ではあるが、今回のトークショーで最後に質問した美大生のように、辛い現場なのに美を感じてしまう体験を通じて、学校で学んでいる芸術の意味とか意義を一から問い直すことになればいいなあと思う。
 石川梵は、恐ろしくて向き合えない現実かもしれないけれど、10年後、20年後に風化してしまわないようなものを残したいと言った。
 3.11の記録ではなく、私たちが遭遇した未曾有の出来事の記憶を残すことが大事なのだ。人は、人生の節目などにおいて、記憶を通じて自分の生命と向き合う。記憶が深ければ深いほど、その向き合い方も深くなる。
 悲しみも恐ろしさも、生きていることのリアリティであり、それを避けるのではなく、受け入れて記憶化し、そのうえで超越していくことが、次のステージにつながる。骨のある写真家というのは、そういう信念で写真を撮っているのだろうと思う。