3.11直前の東京、時代と写真表現の重なり

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 昨年の3.11の大震災の前に「空即是色」というテーマで第43号の準備をしていた。その内容は、あの大震災を予言するかのように不吉な波や、沈鬱とした東京の街や、水辺で祈る様々な宗教の人々や、生と死が一体となったような自然の光景や、若くして未亡人になった女性とその子供などで構成されていた。

 http://www.kazetabi.com/bn/43.html

 この中藤毅彦君の東京の写真もその一つだ。中藤君の写真は、風の旅人で何度も掲載してきたが、それ以外に、彼とは、介護会社のPR誌をはじめ様々な仕事の取材で東北や九州などに一緒に行っている。

 3.11の震災直後も、震災地に行かなければならないという気持ちと、行っても何にもできないのではないかという気持ちの板挟みになって二人で話をしていた時、介護会社の社長が石巻から私に電話をかけてきて、震災直後の介護現場の状況を取材して欲しいと依頼があったので、中藤君と二人で、すぐに宮城県に入った。

 実はつい一週間ほど前、大勢の学生の前で中藤君と対談をする機会があり、彼のデビューの時からの写真をスライドショーで次々と見ながら、色々話しをした。彼の写真は、これまでにも十分に見てきたつもりだけど、改めて全体を俯瞰して見ると、私たちが生きる時代において、重要な節目となる時期に、鍵を握る場所で撮影を行っていることに改めて気づいた。

 バブル崩壊後の東京の町中、ベルリンの壁崩壊後の東欧諸国、9.11直後のニューヨーク、2005年前後、自由経済化に伴って変貌著しい中国、ロシア、そして、ここに紹介しているような3.11直前の不吉な空気の漂う東京。それらの写真は、単なる事象をドキュメント的に映しているのではないし、海外を記号的に伝える絵はがき的なカットも一枚もない。たとえば、9.11テロ直後のニューヨークの写真では、ナショナリズムが高揚する一方、戸惑いと悲哀をにじませながら自分を強く見せようとするアメリカ人の心情が、よく現れている。

 また、9.11と3.11の間、サハリンやキューバなど、大国の隣でありながら、別世界に生きる人々の豊かな表情を撮っており、人間の幸福が、資本主義経済の尺度だけでは計れないことを、主義主張ではなく、小さな声で繊細に伝えている。

 彼は、一流の写真家と言われる人が持ち合わせている嗅覚で、社会の表層からは見えにくい時代の潜在的な空気を、当人は無自覚のまま捉える写真家だ。 

 一般の人々が大衆メディアなどを通じて知らず知らず自分の中に作り上げているイメージをなぞるだけのコピー写真を撮って、一般の人々にすり寄って媚びるフォトグラファーも大勢いるが、それらの写真は、映した瞬間、すでに過去のものでしかない。

 「写真は、事象を記録するので、それはどのように撮っても過去の出来事である」と言う評論家がいるが、それは、時間を直線的にしか捉えることのできない人の思考の癖だ。私は、よく喩えに出すのだけど、時代社会はロールシャハテストのようなもので、黒い部分にしか意識がいかず、壷にしか見えなかったのに、ある日、白の部分に意識がいくようになって、向き合う二人に見えるようになる。美の尺度も、そのように変遷するし、自分を中心にして世界を見ている感覚と、世界の方から自分が見られているという感覚も、突然、入れ替わる可能性もある。パラダイムシフトというのは、そういうものであり、優れた写真家というのは、多くの人が黒の部分にしか意識が行っていない状態の時に、白の部分の見方を提示している人だと私は思っている。だから、当然ながら、孤独になりやすい。人と違うものを見ているのだから。

 社会通念上、正義で善とされるような価値観に寄り添って表現活動を行っている人を、私は、表現者として、あまり信用していない。むしろ、その表現は、多くの人が黒と見ている状態をさらに強化して、白と見る可能性を狭めているのではないかとさえ思う。人の意識を狭めたり、既存の固定観念を強化するものは、もはや表現とは言えず、時代や社会との馴れ合い作業だ。

 そういう意味で、中藤君という写真家を私は信用している。彼には、表現者を名乗る者に多く見られる傲慢さはない。頑固さや自己主張の強さを表現者の証だと勘違いしている人がいるが、それは、人間の自己が、今ほど強くない時代に、自己を強く持てる人が貴重だっただけで、今では誰も彼もが自己を強く主張するので、表現者が、それを真似してもしかたがない。むしろ中藤毅彦のように、自己を抑制でき、柔軟に人に対応する事ができ、若い人達に対して面倒見のいい人の方が、未来の表現者の姿かもしれない。

 話は変わるが、岡本太郎と言えば、大衆メディアがオモシロおかしく取り上げてきたため、強烈な自己を持っていて、アクの強い人という印象を多くの人が抱いているが、私は、彼が、人の写真を正面から撮るのが苦手で、背中から撮ってしまうという話が好きだ。

 彼は写真家ではないけれど、その話は彼の性質をよく表している。真実を表現するには、対象に対して、目を少し伏せるくらいの謙虚さが必要なのだろうと思う。

 中藤君も、人を撮るのが苦手だった。だけど写真家は、躊躇いながらも、人を正面から撮らなければならない瞬間がある。

 一緒に介護現場の取材を重ねて来て、中藤君は、人を正面から撮ることの難しさをわかったうえで、敢えて撮るための呼吸を少しずつ身につけてきた。若い頃は、大衆メディアが作り上げるカッコよさの範疇に属さないカッコいい街中写真が彼の持ち味だったが、今は、人間存在の根本に問いかける写真が増えてきている。それは、これからの時代に、とりわけ重要なテーマだろう。