原発に関する私の考え方3

 原発問題は、賛否の立場に関係なく誰にとっても究極の試金石だとの受け止め方が必要であり実際にそうです。単なる生活のことにとどまらない、思考や心構えや生き方全てに関わる試金石。現在の教育現場にはできない哲学の鍛錬の機会。そうあって初めて、あの災害を教訓と言える。
 原発を止める事で、 雇用の喪失、小企業の倒産、商店や家庭での冷蔵庫、冷房断による老人の健康被害…,混乱は弱いものにしわ寄せ。実際に、そうなる可能性はあるのだが、原発反対派は、電気は足りる、代替えがある云々と楽観的観測を言う。そして推進派は、混乱が起こらないために原発は必要で、だから安全性を確保して云々と楽観的観測を言う。
 両者も楽観的希望をもとにした議論であり、原発問題の解答はそういう導き方では決してできないと思う。経済発展と安心生活は一体ではないことを突きつけているのが原発問題であり、その究極的な問い、つまり楽観的希望に基づく思考ではなく、最悪の事態を想定した上で、どうなんだと自分に問うことをしていなければ、実際にそうなった時に、また感情的パニックと、理屈分別の言い訳による対応になる。
 思考として楽なのは、そうした最悪の事態にしない方法があるとか、それとこれは別の問題とかいいながら、自分の支持する方の意見を説くことだけど、もうその程度の意見(原発の段階的縮小云々とか、代替えエネルギー云々とか)は、聞かなくてもわかっている。そして、この種の議論は、互いの優位性を示すための証拠の集め合いの言葉遊びになるだけ。そしたら理屈に長けた方が有利になるので、理屈の弱い方は感情に訴える戦略をとる。どちらも最悪の事態を横に置くということで同じ。
 そうではなく、どちらも起こるうることを堂々と認めたうえで、どちらを選ぶのかを自分に問うということ。私が覚悟と言っているのは、それです。
 でも、現状の日本社会と、現状の思考方法では、その覚悟を持つことは難しいでしょう。
 戦後社会の言葉は、そうした最悪の事態に対する覚悟を避けて言葉遊びを繰り返し、結果として、人々は、そうした言葉にまったく関心を持たなくなり、覚悟よりも、日々の楽なことの方を望むようになったから。
 では、この問題の解き方を考える新しい思考と、新しい気持ちの持ち方と、生き方の見直しに関する言論は、在るのか無いのかと問われれば、在ると私は答えます。でもそれは、二元論に染まった私たちの頭では理解しづらい。勝でも負けるでもないという境地は教育されていない。
 二元論に染まった思考では理解できないだろうから、二元論を押し進めたうえで、ごましながら対応していくと利口な人は考える。ようするに、人間を信用していない。そうした利口が、教育の現場においても、管理を導入し、頭でっかちの人間を大量生産する教育を作る。
 日本の思想は、覚悟の持ち方に通じていた。
 ・・・でも、それが悪用されることもあるし、実際に利用された歴史的経験がある。それが問題。日本が究極において、欧米のようにプリンシプルを持ちにくいのは、その歴史的体験が、背後を脅かしているから。悪用されやすい、覚悟の思想。即席で身につけようとすると、まったく逆方向に行ってしまう。