これからの表現者?

 昨日、写真家の森永純さんと会った。一昨年の夏、生死の境目を彷徨うような大病を患ったが、退院後はリハビリも順調で、まだ歩くのに少し不便そうだが、会うたびに少しずつ元気になっていくようで嬉しい。 
 森永純さんは、波の写真を30年以上に渡って撮り続けており、それでもまだ完成していないと言っている。これまでも、写真集は、ユージン・スミスが号泣したという伝説の「ドブ川」の写真集の一冊だけだけしか作っていない。展覧会は、主にアメリカで行なってきて、日本ではほとんど行われなかった。しかし、風の旅人の第34号と35号で立て続けに紹介した後に、新宿のエプソンギャラリーで、久しぶりに展覧会が行われた。
 森永さんの写真は、日本のパターン化された文化をなぞったものでも、日本の表層的な現象を今風に写しとったものでなく、日本人や日本文化の潜在的な象を示していると私は感じている。
 潜在的な象とは何かというと、全ての現象事象の根元にあって、現象界に働きかけている基礎なるもの。表現者を自称する人の中には、客観的現象面の一片だけを切り取って、それを現実と言ってみたり、その反対に目に見えぬものが大事だなどと誇張して、現実離れした、空想妄想に浸るようなことも多く見られる。
 近年では、その両サイドの違った立場でありながら、表されるものは同じように、わけのわからないものになっている傾向が多い。世界がわけのわからないものであるからそうなるというより、表現を行なっている本人がわけがわからなくなっていて、だから表現されたものもそうなる。そして同じように混迷している人が、それに共感するという、おかしな現象が重なって、そのおかしな現象の重なりを”現代的感覚”などと持ち上げる評論家もいたりして、ますます錯綜混迷とする。
 そろそろこの状態を脱却しなければならないと、多くの人が薄々感じている筈だけど、その道が見つからない。

 岸辺に打ち寄せる波を短期間でパシャパシャと撮って、波の写真だと言うイージーな写真家がいる一方、森永さんは、30年以上、波を撮り続けて、まだ完成していないと言う。
 その違いは何によって起こるかと言えば、前者は、誰もが既に了解している波という記号を、なぞることが表現だと思っている。
 森永さんは、波の潜在的な実態を直感的に把握し、それを安易な記号を使って表してしまうと実態が損なわることを知っている。波の実態を把握できていない人は、自分本位に対象を切り取ったものを躊躇うことなく提示できてしまうし、そこに反省もない。実態を把握しているからこそ、自分の表現と実態との間の差異に気づく。そして、その差異を埋めようとして時間をかけるし、色々な向き合い方を試さざるを得ない。
 
 話は変わるが、たとえば、「物事の本質を見る」とか、「自然に帰る」という言葉を、日本人は安易に使う。だから、家電商品の販売などにおいても、エコマークをつけて、脳天気に「自然を大切に」「地球にやさしい」などと言えてしまう。
 自分が行なっていることと”本来の自然”との差異に無自覚で無関心で、その差異を埋めようともせず、「良いことをした」と涼しい顔でいられる。

 だからといって、自然とは何であるかということを観念で説明することも、あまり意味がない。観念はどこまでいっても、現象の一片を弄ぶだけだろう。
 自然とは何であるか、その実態は直感的に把握するしかないし、表現者が、それこそ命を賭して試みることは、その実態を、抽象によって置き換えることなのだと思う。多くの人が、潜在的には直感把握していながら、具体的な形象にしずらいものを、表現者が、形あるものとして眼前に示してくれる。そのことによって、世界と自分のつながりを具体的に確かめることができる。だから、かつて芸術と宗教は境界がなく、ともに世俗の分別を超えたところに向けられたものだった。現在のように市場経済のなかで消費者マインドと折り合いをつけるような商品でなかったことは確かだ。

 私の独断ではあるが、表現者というのは、その本質として、人間というのは簡単に自然に戻れない存在であることを自覚したうえで、自然に反しないことはどういうことか考え続け、実践し続ける存在であると思う。その為には、自然を観察する目を持っているだけでなく、自然と自分の関係を俯瞰する目も持ち合わせていなければならないと思う。