大飯原発再稼働は責任問題なのではなく、究極の判断の問題だ。

 野田首相大飯原発再稼働について国民に理解を求める声明が発表され、このことについて内田樹さんが詳しく意見を述べている。
 内田さんは、この声明を読み、野田さんを誠実さを欠いた人であると判断し、野田さんに自分達の運命を委ねるわけにはいかないということを、丁寧に書いている。http://blog.tatsuru.com/2012/06/14_1241.php
 
 野田総理の欺瞞に満ちた長い言葉を、内田さんは、丁寧にわかりやすく分解し、ぼんやりしていると騙されてしまうぞと警告している。
 野田総理の声明が内容もないのに、やたらに長いため、その分解作業も長くなってしまう。
 野田総理は、大飯原発の再稼働に対して自分が責任をとるという悲壮な覚悟を示すために、あれこれ情に訴える言い回しを繰り返すが、そもそも、原発事故という天秤に乗せるほど価値のある政治家の責任があるなど、誰も思ってはいない。

 ダラダラと長い声明だが、内容は実に空疎だ。これだけ空疎な内容ならば、もっと手短かに言える。
 この声明の内容は、何日か前にブログに書いた、中学校に東電の人が来て生徒に伝えたものと、何ら変わらない。http://kazetabi.lekumo.biz/blog/2012/06/post-2ba4.html
「昨年の福島原発事故は本当に申しわけなかった。あってはならないことだった。でも、省資源国の日本は、原発無しではやっていけない。また、地球温暖化!?(原発正当化のロジック)のためにも原発は有効だ。その為、十分な安全対策を行って原発を動かさなければならない。昨年の震災のような津波地震が来ても大丈夫なように準備をしている。だから理解してもらいたい。」
 野田総理のダラダラとした話の内容は、端的にまとめるとこれだけのことだ。
 そして、その声明の中には、福島第4号機のように、六カ所村に持っていけないまま全国の原発の簡易なプールに置かれている莫大な使用済み核燃料のことや、六カ所村は使用済み核燃料がほぼ満杯で、他に持っていく場所がないこと。オイルショック時には発電の4/3が石油頼みだったが、今は天然ガスや他の方法が、当時に比べて色々と検討できること。近年、地震が多発しており、東日本大震災は、これから多発する大地震のプロローグかもしれないこと。ウランの埋蔵量が限られていて、かつ原発で使用するウラン235の濃縮にいたっては、ほとんど全てアメリカに依存している状況であること等、他にも色々と説明しなければならないことがある筈だ。
 そうしたことを全て踏まえたうえで、経済の論理が優先するという判断もあるかもしれない。福井の人達のように、何十年後ではなく、この数年、生活していけるかどうかという当面の問題もあるのだから。
 しかし、そういう原発稼働の不都合なことは隠しているくせに、もし病院で停電があったら死人が出るとか、中小企業の倒産とか、大企業の海外への移転等と、原発を動かす為の理由については事細かく並べたてている。
 フェアでないなあと思う。一国の国論を二分している問題に対する声明だと言いながら、天秤の一方の方にしか錘を乗せない。
 もう一方(原発の危険性、将来性)については、昨年の福島のようなことが起こらないように、しっかりと対策を練っているという抽象的な話を繰り返すだけなのだ。 
 全てを包み隠さずさらけ出したうえで、どちらがいいのですかと問うことは簡単でないことはわかっているけれど、都合の悪いことを隠して判断を仰ぎながら事を進めるスタンスは、先に進めば進むほど、都合の悪い事は、より隠すようになる。途中から急に本当のことをさらけ出すということは、絶対にないと言える。
 そのようにして事が動き出すと、みなで一丸とならなければ成果は得られないという論理が人を支配するようになり、本当のことをさらけ出すことは、より難しくなっていく。
 野田総理の声明が、中学校で行われた授業と何ら変わらないということは、野田総理だけの問題だけでなく、政治家、官僚、財界、そして教育関係者まで、その論理で一本化されつつあるということだ。つまり、先の大戦と同じだ。
 私は、戦争が起きると言っているのではない。歴史は繰り返すが、同じ形では起こらない。でも後から振り返ると、まったく同じではなくても結果的に同じようなことをしでかしてしまう。人間は、表面の形は注意深く見て同じ過ちをおかさないように気をつけるのだが、本質に目がいかない。
 戦争や原発事故そのものが表面の形だとすると、本質とはいったい何なのか。
 それは、人間の性質として、与えられる情報によって簡単に目が曇らされる傾向があるということだ。そして、人は、自分の目が曇らされているとは思っていない。だから、後になって、騙されていたと言う。情報操作によって、人間の思考や判断は作り替えられてしまうのだ。
 よって、過去と同じ過ちを繰り返さないために、「戦争に反対します」、「原発に反対します」と声高に叫ぶだけではダメだ。なぜなら、そのように反対する自分が、自分が信じたい事や知りたい事以外を遮断し、目を閉じているならば、それは自分が敵視している相手と同じだからだ。戦況が変わっていたとしても、そのことに敏感になれない。
 天秤の片側だけに錘を載せるのではなく、右と左の両側に、どれだけたくさんの錘を載せることができるか。そして、究極の判断の場合、どちらを選ぶにしても、左右の錘のバランスは微妙な筈だ。一方にだけ極端に傾くことはあり得ない。だから、今までに想定できなかった要素がもう一方の側に載ると、そちらの方が重くなって、判断が変わることだってある。あってかまわない。むしろ、そうした柔軟性が、先の戦争のような、後には引けない破滅的行為から人間を救う。
 今の時点で、野田総理大臣(政・官・財を象徴しているにすぎないが)は、判断を天秤にかけるうえで、自分に不都合なことを隠しすぎている。今でさえそうならば、その判断のもとに事が始まってしまうと今後いっそう不都合なことを隠すことになるだろう。
 最初、大飯原発の再稼働は夏場の電気需要のピークをしのぐ為に必要という言い方をしていたが、今回の声明で、夏場の稼働だけでは日本は立ち行かなくなるので夏以降も続ける必要があると宣言している。なし崩し的とは、こういうことを言う。
 段階的脱原発というならば、その具体的な年数と計画を伝えるべきだし、原発を動かすつもりならば、使用済み核燃料はどうするのか、核燃料サイクルはどうなるのかという難しい問題も合わせて考えを述べなければならない。
 目先のことだけの為に、後になってクレイジーとしか思われないようなことを先の戦争で日本人は行った。当時の日本のリーダーも、現在の野田総理のように、悲壮な覚悟だけを口にして、その実態は実に空疎だった。究極の判断において、感傷に訴える悲壮なゼスチャーはいらない。それよりも、判断材料をフェアにすることの方がよほど大事だ。
 賛成か反対か、どちらが正しいかなんて誰もわからないし、どちらに転ぼうが誰も責任なんかとれない。責任を取るなんて言っている人間は、自分に酔っているだけだ。
 大飯原発の再稼働は、責任問題なのではなく、いかに判断すべきかの究極の問題なのだ。判断材料をできるだけフェアにしようと努力すること。まずはそこから始めるべきだ。日本人一人ひとりが、究極の問いと判断だという自覚を持って考えなければ何にもならない。後になって、一方は、「騙されていた」と言い、もう一方は、「あの時は、ああするしかなかった」と言う。何も考えず何も知ろうとせずに安易に騙されて責任回避したり、狭い視野で「ああするしかなかった」と言い訳するのは、先の戦争と同じだということを再認識する必要がある。