戦後日本社会を疾走し続ける写真家 川田喜久治

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 写真家、川田喜久治さんは、1933年1月1日生まれ。(私と同じ誕生日だと初めて知った)。まもなく80歳になろうとしている写真家の巨匠だ。写真表現に深く関係している人達にとって、石元泰博さん、東松照明さん、細江英公さん等と並んで、戦後日本の写真を語る上で欠かせない人だ。

 川田さんの凄いところは、80歳という年齢をまったく感じさせない若々しさにある。今でも、自分で車を運転しながら、東京の町中の写真を撮り続けている。アシスタントか誰かに運転させながらシャッターチャンスを狙って撮るような写真は、自分の中に既にできあがっているイメージを追っているにすぎない。「無心に」、とか「感性のままに』などと言う人が多いが、人は誰でも、イメージの洪水のなかで、様々なイメージを刷り込まれており、自分の感性で選び取ったように思っていても、それはそのように選び取るように刷り込まれているだけのことが多い。

 「自分ならではの物の見方」、「物そのものと出会う」、などというのは、口で言うほど簡単なことではないのだ。

 川田さんは、自分でハンドルを握りながら撮影するという緊張感が、自分の中にできあがっている既成の概念やイメージを超越するうえで必要なのだと言う。その方法は人によって様々だ。瞑想をする人もいるだろう。イチローが試合のある日はいつもカレーライスを食べて、同じ準備運動を繰り返すのもそうだと思う。自分が変成意識に入るためのスイッチ。それこそ本当の無意識の状態で、150kmのボールが止まって見えたり、人が簡単に見落としてしまうようなものが見えてくるのだろうと思う。

 一昨日も川田さんと会ってたっぷり話し込んだのだが、いつも感心するのは、川田さんの頭脳の若々しさと柔軟さだ。表現の質に対してのこだわりは凄まじいものがあるが、だからといって頑固頭ではなく、意識が大きなところに開かれている。未来まで突っ走った後に現代に戻ってきているような、現状に対する俯瞰の眼差しがある。

 そして、カメラだけでなく、コンピュータその他の電子機器も、自在に操る。仕事場には、パソコンやプリンターがズラリと並び、(真っ赤なマウスパッドがお洒落)、自分の写真を動画にしたり、デザインして世界に一冊のオリジナル写真集を製本したりする。

 最近、若い人と話している時でも、『僕はそういうことは苦手で・・・」「それは僕の専門でないので・・・」という言い方で自分に壁を作る人が非常に多いのだが、川田さんには、まったくそういうところはない。「そういうことは苦手で・・」という人に、「だったら得意な事は何だよ」と尋ねても、大した答えは返ってこないだろう。せいぜい、自分の周辺の非常に狭い範囲の中で、自分の固定したイメージにそって、手の中のものをこねまわしているにすぎないかもしれない。

 川田さんの写真は、風の旅人の36号、41号、44号で紹介した。そして、一回ごとに、ぐんぐんと深まってくる。復刊第一号でも、新作を紹介する。私が構想しているテーマ、修羅にぴったりの内容で、度肝を抜かれた。

 2001年9月11日のあの大事件から、2011年3月11日の大天災と大人災。その二つが、私たちの生きている時代と切り離せないイメージとして、鋭く胸に突き刺さってくる。そのイメージは、自分で壁を作り、その前で立ち止まってしまうと見えてこない。壁を取り払って走り出している者だけが、走馬灯のように見ることのできるイメージなのだ。

 この写真は、風の旅人の44号で紹介した写真。

 川田さんの新作は、12月発行予定の45号で紹介するが、その前に、田町のPGIで展覧会が開かれる。風の旅人の誌面と展覧会では、また違ったものが見えてくるだろうと思う。

http://www.pgi.ac/content/view/350/76/lang,en/

 自由で力のある写真は、場によって、見え方も異なっくる。