齋藤亮一さんの写真の魅力

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 (撮影/齋藤亮一 風の旅人 復刊第2号(2012年6月1日発行 http://www.kazetabi.jp/ より)

 6月19日(水)午後7時より、荻窪の六次元で、かぜたびナイト第5回 写真家の齋藤亮一さんとトークショーを行ないます。

 お申し込みは、直接六次元まで。→http://www.6jigen.com/

 今日の昼、写真家の内山英明さんが吉祥寺まで来たので一緒にご飯を食べた。その時、齋藤さんとトークをすると伝えると、ぜひ行きたいと言う。なぜなら、土門拳賞作家の内山さんは、地下世界の重厚で荘厳なドキュメンタリー写真を撮っているが、写真のテイストはまったく異なる齋藤亮一さんの写真のファンなのだそうだ。

 いつも思うことだが、齋藤亮一さんの作品からは、人間界の悲喜こもごもの全てを静かに受容する包容力を感じる。
 齋藤さんは、バルカン半島、ロシア、キューバなど、共産圏の国々の写真を数多く撮影している。最近では、フンザ、そしてインドの写真集を出し、震災後、殺伐とした空気に支配されていた日本社会に、『佳き日』と出して、日本各地の四季折々のお祭りと人々の笑顔に満ちたコンパクトな写真集を発表した。「はれ_の日の佳きエネルギーを放つ人々と、それらをとらえた写真集。

 地球上のどこに行っても、齋藤さんが撮影するのは、人々の何気ない日常だ。

 発展途上国とか共産圏とかに関係なく、どこに行っても、人間は一生懸命に働き、食べ、語らい、遊び、学び、憩う。数千年以上、人間は同じことを繰り返してきた。近年の文明社会においては、そうした人間の基本動作が見えにくくなってしまい、人間としてのアイデンティティすらも見失われがちになる。だからかどうかわからないが、齋藤さんは、そうした人間の基本動作が見えるところに向かって、旅を続ける。

 何をもって「人間の基本動作」とするかは人それぞれの判断だろうが、長い間継続してきたことというのは、それだけでも真理を反映している。今日の私たちの生活は、数年足らずの時間しか経ていない不確かなものを、あまりにも重視し過ぎているだけなのだ。
 20世紀の大半において、世界は、たかがこの数世紀以内にできた価値観に基づき、「正しい社会の在り方」を主張する二つの大きな勢力が対立していた。そして、1989年のベルリンの壁崩壊後、「共産主義」は否定され、「資本主義」こそが正しく優れているという気運が強まったが、その価値観の強要に対するイスラム原理主義などの反発によって、世界は相変わらず対立構造のなかにある。
 「資本主義」も「共産主義」も、それ以外の「正しさ」を主張する活動も、そこから少しズレているものを強引にねじふせることを正当化しようとする鈍感さと、悪意からではなく自らの価値観への盲目的な信仰に基づいて行われるという点で共通している。
 それらの「主義」は、頭のなかだけで作りあげた「正しさ」を人生や社会の全てに結びつけようとする性向があるが、それが、この時代の大きな特徴なのだろう。
 人間は頭を使って生きているが、頭の中だけで生きているのではなく、身体を通して世界とつながって生きている。身体を動かさず頭のなかだけで物事を決めようとする人間はそのことを忘れがちだが、そうしたタイプの人間が今日の競争社会で優位に立っているので、結果として、人間の身体感覚が歪められる世界ができあがっている。
 頭の中だけで決めてしまうのではなく、時間をかけて付き合いながら、正しさとか間違いを超えた普遍的な真理に近づいていこうとする態度こそが、今もっとも必要なのだろうけれど、この世知辛い社会で、そうした心の余裕を作り出すことは難しく、頭だけで目先の分別に走り、その選択に自らが振り回されるという状況が続いている。そうした風潮は、安倍政権になって、ますます強まっている。経済のこと、教育のこと、そして安全保障のことなど、正しさを決める為に安倍政権のブレーンになっている人に、頭でっかちの人が多いような気がする。こうすればああなる、ああすればこうなると頭で計算して強引に押し進めようとするが、物事はそうのようにうまくいかない。うまくいかないということが、株価、長期金利円高、デフレ対策など様々な側面で、明確になるのにそんなに時間は必要ないだろう。

 経営評論家の論理と、実際に会社を経営するのは違うのだ。経営評論家の計算から外れてしまうことのなかに、物事の本質がたくさん宿っている。計算からは導き出せない不確定要素の積み重ねが創り出す混沌と秩序の関係は、現場の経験知からしか察し得ない。

 齋藤さんは、時代や社会がつくり出す一過性のフォーマットとは別のところに立って人間の魅力を感じ、それを写真に反映させようとしているが、そうすることによって、思想・学説・制度の影響を超えて普遍的に存在する人間の姿が浮かびあがってくる。
 どんな環境であれ、人間の営みには、それが成立していることじたいの奇跡を強く感じさせる瞬間がある。その奇跡に出会う時、人間という存在のかけがえのなさを強く意識させられるとともに、自分が信じこんでいる価値観の偏狭さに気付かされることがある。齊籐さんは、その奇跡の瞬間を見事なまでに印画紙に焼き付ける。
 齋藤さんが撮った人物たちが素敵に輝いて見えるほどに、私たちは、自分が理解している価値基準の狭さと、時と場所に関係ない人間の魅力を思い知らされる。そして、人間の幸福が、特定の主義主張に収まりきらない奥行きと幅を持つことを再認識させられる。さらに、そのように自分の価値観を強く揺さぶられることが、不安や不快ではなく、心が蘇生するような快感を伴うことに気付く。
 ”格差”を主な原因とする今日的な対立は、「優劣」や「正誤」や「善悪」など一面的な観念的価値観によって安易に解決できるものではないだろう。
 モノゴトを「簡単・便利」に切り捨てる合理的な対処ではなく、自分の目と身体で多層な世界をさまよいながら、時代や制度を超えた普遍的な人間の営みに出会い、そのかけがえのなさを知ることが何よりも大事ではないか。よりよく生きることの本質は、人間が長年繰り返してきた濃密なる日常を寸断したところにある筈がない。
 齋藤亮一さんの写真は、寡黙ながらしっかりとした口ぶりで、そのことを伝えてくるように感じられる。

 


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