高齢者になる入り口で

 昭和36年生まれ、今年52歳になる男性は、年金の受給開始が65歳になる最初の世代。年金給付額の減少にも直面する「逃げ切れない世代」らしい。
 私は昭和37年1月1日生まれだから、まさにこの世代に属する。
 そして、私以降に生まれた人達は、年金受給が65歳から少しずつ70歳に近づいていく。平均年齢が80歳くらいだとしても、病気などによって何が起こるかわからないのだから、ほとんど年金を受給することなく人生を終える可能性も高いのだ。
 もともと年金なんかには期待せずに人生を全うしたいと思っていたけれど、年金は払い続けている。矛盾した制度だと思うけれど、現在でも莫大に存在している高齢者を支えるものが、年金以外にないのだから仕方が無い。
 しかし、いつも思うのだけれど、たとえば美術館に行っても、たまにしか行かないデパートでも、高齢者が異常に多い。高齢者が元気なのだからいいことだと言う人もいるが、高齢者の元気とは、そういうことだろうかと疑問に思うことも多い。
 またビジネスシーンにおいても、たくさん貯金をしている高齢者に、いかにしてお金を使わせるかということがテーマになることが多い。
 しかし、20年後には、65歳以上の人が人口の半分を占めるという計算もあり、64歳以下の二人に一人が65歳以上を支えるという構造になる。1950年代は12人で一人、1970年代は10人で一人を支えていたらしいが、その感覚で、若い世代が老人を支えて当然という意識のまま65歳以上になる人が多いと、日本は酷いことになる。
 20年というのは、遠い未来ではなく、自分の人生を振り返っても、あっという間だ。
 美術館やデパートを高齢者が占領するのと同じくらい、病院では朝早くから高齢者が列を作っている。会社勤めの人が、早朝に診察などすませて出勤しようと思っても、それよりも早い時間から高齢者が順番待ちをしていることも多い。私はめったに病院に行かないが、数年前、しかたなく病院に行かざるを得なかった時、仕事の無い高齢者の診察は午後からにして欲しいと思ったこともある。
 高齢者が元気というのは、もちろん病院通いが極力少ないというのが一番いいのだが、どのように日々を過ごしていくことが本当の元気なのかということを、真剣に考えていかなければならない時期にきている。
 高齢者が増加するので高齢者福祉を充実させるという政策スローガンは、高齢者や高齢者予備軍に媚びたもので、束の間の慰みにすぎない。強引にそれを推し進めても、どこかに歪みが出ることは間違いない。
 思えば、私達のライフスタイルは、束の間の慰みや気晴らしみたいなもので埋め尽くされている。ショッピング、レジャー旅行、美術鑑賞、グルメ・・・、そしてテレビや雑誌の特集も、大半がこれらのもので占められている。そういうものに関心が高い人が多いから、その種の特集が増えるのだろうし、その特集が人の気持ちをさらに煽る。情報に踊らされて気が散って、色々なことに手を出したり、お出かけしていると、人生が充実しているように錯覚してしまうが、実際はとても空疎だ。
 95歳の最期の時まで古代文字の研究に全精力を注いでいた白川静さんは、毎日、朝5時に起きて1時間ほど散歩して、昼の一時頃まで研究に集中して、1時から2時まで昼寝をして、頭がぼんやりしている2時から2時半くらいの間だけ客と会って、その後、目が疲れる6時頃で研究を終え、新聞やテレビのニュースをチェックしてご飯を食べて眠るという規則的な生活を何十年と続けていた。
 その白川さんに風の旅人の連載していただいている時、一度、伊勢神宮について書いていただきたいとお願いしたら、伊勢神宮は子供の時に一度行っただけで、その後、一度も行っていないと言われ、驚いたことがある。白川さんは京都に住んでいたから、伊勢神宮はそんなに遠くない。しかも、白川さんは、古代文字だけでなく、万葉集など日本の古代に関する優れた著作も出している。それでも伊勢神宮には行っていなかった。また、大きな賞を受賞して東京で受賞式がある時も、「一日損した」と言って、日帰りで京都に帰っていたと聞く。
 そんな白川さんは、95歳まで一人で暮らしながら、秘書とか書生とかお手伝いさんを置かず、自分で身の回りのことを全部やっていた。お金がないわけではなかった。90歳まで質素な暮らしで消費や遊びや旅行をせずに仕事を続けていたのだから、5000万円ほど貯金があった。しかし、晩年、それを丸ごと立命館大学に寄付して、研究所を開設した。
http://www.47news.jp/CN/200505/CN2005052401002458.html
 その時、白川さんは自分の娘達に、そのお金を相続させようとしたら、娘達が、「お父さんのお金だから、お父さんの思うように使って欲しい」と言ったと、関係者の方から聞いた。

 それとは対照的に、最近、画家の平山郁夫の妻が脱税をしていたことがニュースになった。自宅に紙袋に入れた2億円があったらしい。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130713-00000019-mai-soci
 私個人としては、平山郁夫の絵を素晴らしいと一度も思ったことがないが、彼の絵が高い値段で売買される背景には、一種の権力ゲームもあっただろうし、権威化によって箔がついているのも間違いない。今という時代を上手に渡ることと、時代を超えて、その精神が語り継がれることは、また別次元の話だ。
 最近お会いした志村ふくみさんは、もう89歳になるが、驚異的な若さを保っている。身体も精神も若い。姿勢もいい。お肌も艶々しているし、瞳も一切の濁りがない。頭脳も冴えている。糸を草木染めで染めて、その糸を織り続けるという行為に、まったく疲れを感じないと言う。
 一つのことに対して、情熱も持って一途に打ち込んでいる人は、ほとんど例外なく若くて元気だ。
 シッピングやレジャー旅行といった消費活動ではなく、高齢者が何か一つのことに対して、一途に打ち込んでいる姿は美しいし、健やかな気がする。その姿を見ることで、若い人達の高齢者を見る目も変わると思う。中には、その姿を見て、触発されて、自分の生き方を見直すこともあるかもしれない。
 高齢者がショッピングやレジャー旅行を楽しんでいる姿を見ても、若者が高齢者を尊敬の眼差しで見ることはない。人口の半分が高齢者になった時でさえ、高齢者がショッピングやレジャー旅行を満喫しようとしていたら、さすがに若者達はうんざりするだろう。
 生涯を通じて何か一つのことに対して打ち込むには、情熱や体力が減退する前に取り組み始めた方がいい。
 それを続けることじたいが喜びとなり、かつそれが消費ではなく生産的なことであれば、社会的にも何かしらの役割を果たすことができ、老後の生き甲斐にもつながるだろう。
 消費やレジャーは刹那的な楽しさを提供するかもしれないが、けっきょく人間は、死ぬまで自分の存在意義を考えてしまう生物であり、消費やレジャーだけでは持続的な満足や充実を得ることはできないと思う。
 白川静さんや志村ふくみさんは、例外中の例外かもしれないが、そのスピリットは、人間であるかぎり誰もが共有できるものだ。自分の弱い部分から目を背けなければ。
 自分が打ち込むべき対象を見つけることは簡単なことではないが、そうした対象を探し求め続けるという意識を持って生きるだけでも、世の中や人生を見る眼差しが変わってくると思う。 


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