鬼海弘雄のモダンな百姓的目線

 写真家の鬼海弘雄さんが事務所に来て、アメリカで発行される予定の写真集の写真を見せてくれ、その後、焼き鳥屋で飲んだ。
 ちょうど、最近、セバスチャン・サルガドの新しい写真集「genesis」を見て、西欧的世界観を備えている表現者の完璧なまでの世界像を見せつけられた後で、日本人には、ああいう世界観と世界像は真似できないなあ、それでも日本人には日本人の世界観と世界像というものがある筈で、それをどういう風に完璧に表すことができるのだろうと考えていたところで、そこに鬼海さんが、絶妙な石を投げ入れてきたような気がした。
 鬼海さんの写真は、この数十年、アメリカ的合理主義に染まってしまった日本人の感性で計れば、ネガティブに評価付けされるような物を、独特の抜け具合で、軽やかに肯定している。
 ただ、よくあるような文明批判でもないし、自然体を主張しながら緩さに依存しきったような緊張感のないものではない。
 軽やかでありながら、骨格がしっかりしている。
 ただ緩いだけのものは、歳月を超えて生き続けることはできない。といって、一切の隙がないように完璧に計算したとおりのものを作ったところで、ある種の遊びがなければ、構成要素の間に摩擦が生じてしまい、すり切れたり、軋んだりする。
 写真もまた、建築のようなもので、法隆寺のように時代を超えて建ち続けているものは、緩さと強さが、絶妙につり合っている。
 日本人は、昔から、その感覚を、間とか間合いとかという感覚で掴んできた。
 そして、間とか間合いを、世界観にまで高め、世界像としてアウトプットしてきた。
 法隆寺桂離宮、俳句、武術など、数えきれないほど例はある。
 その世界観と世界像を現代の具体的な事物を通して、どのように表現するか。写真家の仕事は、やはり具体を通して、世界像という抽象に達することであり、最初から曖昧模糊とした抽象に逃げているのは、けっきょくゴマカシだと思う。
 鬼海さんは、自分のことを山形の百姓出身だからと言うが、21世紀の表現の幕は、そういうところから切り開かれるのではないかと思ったりする。
 都市世界は、人間の思うように物事を作り、管理しようとするが、百姓の世界は、人間としてできるかぎりの努力はするが、すべてを自分の思うように管理できないという前提で生きている。
 農産物を作る場合は、具体的にそれがどういうことなにかはイメージできる。しかし、その感覚を写真で表すとどうなるのか。
 田舎出身でも、表現行為においては、都市的な感覚でやってしまう人は多い。
 表現行為においても、百姓的にやることとはどういうことなのか。万事は人間が管理できるものでないと開き直って、だらしなく自然任せにして、けっきょく、何一つ育てられないと、それはもはや百姓ではない。
 全てを計算し管理できるわけではないけれど、自然の機微を見事に読んで、作物を育て、収穫をあげること。
 そういう百姓の境地の写真こそが、今こそ出てきてほしいと思う。

 『東京夢譚』という写真集には、アメリカで出版される写真の幾つかが含まれている。そして、百姓的なスタイルで撮る鬼海さんの特徴がよく出ている

 百姓は、自分の計算に当てはめようと焦ったりせず、時間をかけ、その時が来るまで待つ忍耐力がある。そして、その時を見極める観察力がある。鬼海さんの街角写真は、常人には考えられないくらい時間を賭け続けている。町中を何日も歩き続けても一枚も写真が撮れないことがある。いつも、「撮れない、撮れない」と言っている。そうした持続的行為のなかで、我々が当たり前のものとして見過ごしてしまう光景に、未知の世界への扉なのか、私達の意識の深層に隠れている郷愁の傷痕なのか、触れたくもあり触れたくもない、微妙に心揺らぐ図像を掴みとってくる。

 本当は好きなのに好きだと言えない事情。目の前の現実に自分を合わせるために、自分の本心に蓋をして、どこかで無理をして、あくせくと目の前に現われては消える現象ばかりを追い続けて、そういう自分に少し気づいているのに気づかないふりをし続けること。

 「そういうことは、もういいんじゃねえの」と、鬼海さんのモダンな百姓的目線が、鋭く円く、世界を収穫している。 

 


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