石巻市の津波被害をめぐる裁判のことについて

 「石巻津波で園児5人死亡 幼稚園と園長に賠償命じる判決」。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130917/t10014588291000.html

 このニュース(とくに園長個人を指定していること)が、なんだか自分に重くのしかかってくる。子供が亡くなったという事実だけに焦点をあてると、その原因を作ったやつが悪いと物事を単純化できる。しかし、事実はそんなに単純ではない。私は、あの震災後、宮城県の各地を取材し、色々話しを聞いた。介護会社のスタッフで、地震の後、海岸近くの老人を見回りに行って津波に巻き込まれて、かろうじて助かった人もいるし、津波警報があったけれど、ここまではこないだろうと安心して介護をしていて,老人と一緒に津波に巻き込まれて天井にしがみついて,凍えそうな状況でもかろうじて助かった人もいる。独居の老人を見回りに行くようにスタッフに指示した管理者もいたし、高台に高齢者を運びながら何度も下に降りていって別の高齢者を助けようとして津波に巻き込まれた人もいた。また介護の仕事中、自分の子供が心配で仕事を中断して家に向かう途中に津波に巻き込まれて死んだ人もいた(子供は無事だった)。あの混乱のなかで、非常にまともで、日頃、仕事もよくできるような人達でも、判断ミスをしているケースはいくらでもあった。特に石巻市のような大きな都会で、南三陸町などに比べて津波への危機意識が弱い地域は、そういう人がとても多かった。南三陸町のお年寄りでも、前回の津波は一階までしかこなかったから、二階に避難していれば大丈夫だと言って、津波にのみ込まれた人は大勢いた。

 また、今回の判決は、津波によって自分の家が完全に破壊されたり、身内を亡くしている人で、さらに自分の仕事中に(裁判が決めた)判断ミスで、他者を危ない目にあわせたり、命を奪ってしまった場合は、二重の苦しみを抱えなくてはならなくなるという前例になった。実際に私の知っている人でも、家を流され、仮説住宅で暮らしている父親が一年後に亡くなった人で、地震直後、スタッフに、高齢者の家の見回りを指示した人もいる。指示を受けて高齢者の家に行こうとしたスタッフは、間一髪助かったが、それとは別行動で家が心配で家に戻ったスタッフが津波にのみ込まれて亡くなった。もし、指示を受けたスタッフに死者が出ていて、遺族から訴えられたり、賠償責任を負うことになったら、この人は、何重の苦しみを抱え込むことになるのだろう。考えただけでも辛い。
 今回の裁判について、判断ミスなのだから責任を負うのが当たり前とか、日頃の危機管理意識の問題だとか言う評論家などもいるが、自分が無難で安全なところにいる時に頭であれこれ考えるのと、自分がその場にいるのでは、まったく異なる。あの津波に関する判断ミスに関する議論は、あれだけの災害を引き起こして政府も関与する原発のことでさえ、まだ曖昧のままであり、特定の人間スケープゴートのようになっている状況は、とても堪え難い。そして、まだ裁判になっていないものの、あの緊急事態のなか、今回の裁判で出された「正しい判断」をできなかったかもしれない他の人達の心にも、さらなる暗雲を投げかけているだろう。それは、自分も賠償を負わされるかもしれないという不安だけでなく、自分を罪人として意識して生きていかなければならないということであり、それはとても惨い。

 こうした問題について、欧米の賠償保険の話を繰り出してくるのは、個人でも、評論家にもいるけれど、それとこれはまた別問題。自分を安全・無難な立場において知ったかぶりでしかない。賠償保険の話は、今回の事態に幸いにも巻き込まれていない人達に対する啓蒙であり、既に起こったことに対する議論ではなく、これからのことを考えるうえでどうなのかという問題。そんな問題なら、「これからのことを考えれば賠償保険に入っていた方がよさそうだね」で、解けてしまう。
 今回の裁判の問題は、これからのことではなく、既に判決を下された事態に対する問題。もし園長が賠償保険に入っていなかったら、やはりそれも日頃の意識の問題、判断ミスの問題で、自己責任ということになるのか。あの園長以外に、あの震災の現場で、裁判的に正しい判断をできなかった他の人達で、賠償保険に入っていなかった人は、きっと大勢いるだろう。
 お金の問題だけでなく、この裁判の後も、社会的に悪者のように裁かれてしまう人が大勢出てくる可能性があるのだ。もし自分がその立場だったら、それでも遺族の悲しみよりもマシだとか、簡単に言い切れるか。
 それと、自分の子供を亡くしたことの責任の所在をめぐって裁判に勝って、賠償金を得ることになって、それが、自分の救いに対して、どれだけの力になるのかという別の問題がある。この裁判がなければ、同じ地域で、同じように身内を亡くした人達と、心と心で支え合って、暮らしを再建していくしかないと心を定めるしかなかったかもしれないけれど、「あの事態で賠償を請求するなんて信じられない」と感じている人も、地域には大勢いる筈だ。なぜなら、多くの人が、あの未曾有の事態のなかで何かしらの判断ミスをおかしているからだ。そういう周りの目が生じる可能性があるなかで、何の精神的軋轢も感じず、生きていけるのだろうか。

 また、今回、幼稚園だけでなく園長も賠償責任を負うことになったが、園長は、責任者といえども、上に学園理事長とかがいるから、会社で言えば、部長とか課長かもしれない。会社の犯罪で部長とか課長が責任を負うことはある。しかし、課長や部長の、緊急事態における判断ミスで、人が亡くなった場合、会社だけならまだしも、課長や部長が損害賠償を請求されるのだろうか。また、亡くなった子供達と学園理事長は、もしかしたらそんなに縁がなかったかもしれないけれど、園長と子供達は、常に顔を合わせていたかもしれない。園長は子供達が大好きで、子供達も園長のことが大好きだったかもしれない。園長を訴えて、園長が賠償責任を負う事になり、亡くなった子供達に、オマエ達の無念は晴らしたぞということになるのだろうか。子供達が、天国でそんな事態を望んでいるとは到底思えず、とても辛い結果になっている。幼稚園とか会社とかと違い、園長というのは、個人の生身の人間であり、その生身の人間は、子供達と直に交流していたわけで、そのことを踏まえておく必要があると思ってしまう。
 欧米は、日本よりも強力な契約社会であり、自己責任社会であり、それは、キリスト教の”審判”のメンタリティが、審判への備えとともに、国民の中に深く浸透しているからだ。
 しかし、日本人の精神風土は、それとは微妙に異なる。審判でケリがつくのではなく、物事は循環していく。酷い状況がきっかけになって、喜びを知るケースもあるし、宝くじに当たったことが悲劇の始まりということもある。また、亡くなった人は、等しく仏になる。身内も、そうでない人も、その仏を心に共有して生きる。また、自己責任意識や個人主義が弱い分、悲しみや酷い状況に対する共有感覚が強いから、あの震災に見舞われた現場で、エゴに走らず、困難のなか、じっと耐えている大勢の日本人がいたし、その美しい姿は、キリスト教も含めて、世界中の人々の胸に刻まれている。
 日本人は、欧米のような自己責任や審判に対する意識は低いかもしれないけれど、「禍福は糾える縄の如し」と発想できるのだ。そういう日本人にとって本当の救いは、賠償とかではなく、「禍福は糾える縄の如し」と受け止め、その感覚を他者と共有でき、悪いことばかりじゃないよ、これからいいこともあるよ、辛いけど一緒に頑張っていこうねと思える精神だったはず。この精神が根っこにあるからこそ、あの震災後の混乱の中でも、自分を抑制して、秩序正しく、清く行動できた。これまで、様々な災難に見舞われても、前向きに生きてこれた。色々な制度構築も大事かもしれないが、それ以上に、日本人が、世界に誇ることができた心の美しさを失わないことの方が大事だと思う。ああした魔女裁判のような審判が、そうした日本人の心に、さらに大きな亀裂を入れていくことになるのではないかという懸念の方が、個人的に、今は大きい。

 被害者の救済は、もちろん考えていかなければならないことだけど、一人の人間が社会的な制裁によって魔女裁判のように悪者として裁かれ、解決したかのように処理される問題ではないだろうと思う。こうした裁判で社会的に制裁を受け、賠償保険に入ってなかったゆえに破産しただけでなく、精神的にも追いつめられ自殺でもする人が現われる事態になっても、保険に入っていなかったオマエが悪い、判断ミスをしたオマエが悪いと、だから自己責任だということになってしまうのだろうか。被害者の救援は、そういう特定の一人をスケープゴートにする荒っぽい手法でしかできないものか。

 殺人鬼でも詐欺師でもなく、良心的に日々生活をしている人間の、不運とした言いようのない裁判的な判断ミスで、人生が奈落の底に落ちるような社会的な制裁を受ける仕組みが正常なのか。この問題は、事故や災害で人生の奈落に突き落とされた遺族の問題と同様に考える必要があるのではないだろうか。事故にあった人も悲劇だけれど、自分の想像も及ばないところで事故の原因をつくってしまったことで社会的に殺人者とされた人の悲劇の方が、もっと深刻で複雑かもしれない。

 こういうことを書くと、すぐに「亡くなった人の命のことを考えていない」と批判してくる人がいる。亡くなった人のことを考えていないから、こうしたことを書いているわけではなく、今回のことを自分ごととして引き受けて、自分が幼稚園の園長だったとして、あの震災の混乱のなかで絶対に正しい判断をできるという自信がないから書いている。

 消防団の人が亡くなったケースでも、消防団のなかで、危機的状況のなかでどう行動するか、救援に行くのか行かないのか判断するマニュアルをちゃんと使っていなかったり、日頃から教育をしていたのか、その時の責任者の判断はどうだったかという問題もあった。それらは、今後の教訓にしなければならないと、後から出て来たこと。もし、裁判になれば、そうした管理体制を作っていなかったと指摘できる事実はいくらでも積み上げることができる。

 しかし、そういう争いが、重要なのだろうか。

 みんな多くの人の死を悲しんでいるはずで、みんなで死をいたみ、今後こんなことのないように手を取り合って考えていくというスタンスの方がより重要ではないだろうか。誰か特定の人に責任を負わせて人生の奈落の底におとし、再起不能な状況に陥らせることより、そのほうが、人の死を無駄にしないということではないかと思う。