「石巻の津波で園児5人死亡 幼稚園と園長に賠償命じる判決」。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130917/t10014588291000.html
このニュース(とくに園長個人を指定していること)が、なんだか自分に重くのしかかって
また、今回の判決は、津波によって自分の家が完全に破壊されたり、身内を亡くしている人で、さらに自分の仕事中に(裁判が決めた)判断ミスで、他者を危ない目にあわせたり、命を奪ってしまった場合は、二重の苦しみを抱えなくてはならなくなるという前例になった。実際に私の知っている人でも、家を流され、仮説住宅で暮らしている父親が一年後に亡くなった人で、地震直後、スタッフに、高齢者の家の見回りを指示した人もいる。指示を受けて高齢者の家に行こうとしたスタッフは、間一髪助かったが、それとは別行動で家が心配で家に戻ったスタッフが津波にのみ込まれて亡くなった。もし、指示を受けたスタッフに死者が出ていて、遺族から訴えられたり、賠償責任を負うことになったら、この人は、何重の苦しみを抱え込むことになるのだろう。考えただけでも辛い。
今回の裁判について、判断ミスなのだから責任を
こうした問題について、欧米の賠償保険の話を繰り出してくるのは、個
今回の裁判の問題は、これからのことではなく、既に判決を下さ
お金の問題だけでなく、この裁判の後も、社会的に悪者のように
それと、自分の子供を亡くしたことの責任の所在をめぐって裁判
また、今回、幼稚園だけでなく園長も賠償責任を負うことになったが、園長は、責任者といえども、上に学園理事長とかがいるから、会社で言えば、部長とか課長かもしれない。会社の犯罪で部長とか課長が責任を負うことはある。しかし、課長や部長の、緊急事態における判断ミスで、人が亡くなった場合、会社だけならまだしも、課長や部長が損害賠償を請求されるのだろうか。また、亡くなった子供達と学園理事長は、もしかしたらそんなに縁がなかったかもしれないけれど、園長と子供達は、常に顔を合わせていたかもしれない。園長は子供達が大好きで、子供達も園長のことが大好きだったかもしれない。園長を訴えて、園長が賠償責任を負う事になり、亡くなった子供達に、オマエ達の無念は晴らしたぞということになるのだろうか。子供達が、天国でそんな事態を望んでいるとは到底思えず、とても辛い結果になっている。幼稚園とか会社とかと違い、園長というのは、個人の生身の人間であり、その生身の人間は、子供達と直に交流していたわけで、そのことを踏まえておく必要があると思ってしまう。
欧米は、日本よりも強力な契約社会であり、自己責任社会であり
しかし、日本人の精神風土は、それとは微妙に異なる。審判でケリがつくのではなく、物事は循環していく。酷い状況がきっかけになって、喜びを知るケースもあるし、宝くじに当たったことが悲劇の始まりということもある。また、亡くなっ
日本人は、欧米のような自己責任や審判に対する意識は低い
被害者の救済は、もちろん考えていかなければならないことだけど、一人の人間が社会的な制裁によって魔女裁判のように悪者として裁かれ、解決したかのように処理される問題ではないだろうと思う。こうした裁判で社会的に制裁を受け、賠償保険に入ってなかったゆえに破産しただけでなく、精神的にも追いつめられ自殺でもする人が現われる事態になっても、保険に入っていなかったオマエが悪い、判断ミスをしたオマエが悪いと、だから自己責任だということになってしまうのだろうか。被害者の救援は、そういう特定の一人をスケープゴートにする荒っぽい手法でしかできないものか。
殺人鬼でも詐欺師でもなく、良心的に日々生活をしている人間の、不運とした言いようのない裁判的な判断ミスで、人生が奈落の底に落ちるような社会的な制裁を受ける仕組みが正常なのか。この問題は、事故や災害で人生の奈落に突き落とされた遺族の問題と同様に考える必要があるのではないだろうか。事故にあった人も悲劇だけれど、自分の想像も及ばないところで事故の原因をつくってしまったことで社会的に殺人者とされた人の悲劇の方が、もっと深刻で複雑かもしれない。
こういうことを書くと、すぐに「亡くなった人の命のことを考えていない」と批判してくる人がいる。亡くなった人のことを考えていないから、こうしたことを書いているわけではなく、今回のことを自分ごととして引き受けて、自分が幼稚園の園長だったとして、あの震災の混乱のなかで絶対に正しい判断をできるという自信がないから書いている。
消防団の人が亡くなったケースでも、消防団のなかで、危機的状況のなかでどう行動するか、救援に行くのか行かないのか判断するマニュアルをちゃんと使っていなかったり、日頃から教育をしていたのか、その時の責任者の判断はどうだったかという問題もあった。それらは、今後の教訓にしなければならないと、後から出て来たこと。もし、裁判になれば、そうした管理体制を作っていなかったと指摘できる事実はいくらでも積み上げることができる。
しかし、そういう争いが、重要なのだろうか。
みんな多くの人の死を悲しんでいるはずで、みんなで死をいたみ、今後こんなことのないように手を取り合って考えていくというスタンスの方がより重要ではないだろうか。誰か特定の人に責任を負わせて人生の奈落の底におとし、再起不能な状況に陥らせることより、そのほうが、人の死を無駄にしないということではないかと思う。