「風立ちぬ 生きねば」について?

 宮崎駿は、『生きねば』という明確な主題をたてて、物事のディティールを丁寧に描き出し、具体的な物事そのものの積み重ねを通して、ストレートに主題を伝えようとした。
 そして、物そのものから遠ざけてしまう色々な概念的な部分(多くの人が既に共有しているステレオタイプ)を、極力、削ぎ落した。
 『風立ちぬ」は、宮崎駿の究極のラブストーリーだという人もいるが、このラブストーリーには、一緒にご飯を食べたり、一緒にどこかに行ったりという、普通に考えられる、色々な恋愛シーンはどこにもない。手を握ったり、ちょっとキスをするくらいだ。しかし、それでも、お互いを深く思いあっていることは、十分に伝わる。
 また、この映画を、戦闘シーンをきちんと描かなかったということで批判する人もいる。しかし、戦争の悲しみを描くことは、色々な戦闘シーンを見せることなのか? 色々なシーンを出せば出すほど、戦争全体の酷さは見せることができるけれど、戦争の亀裂で喘ぐ個人の苦悩は、希薄化される。個人の悲しみを、一般化してしまうと、戦争は、頭でっかちの正義の論法でしか語られなくなり、一人ひとりの生との関わりが遠ざかってしまう。
 宮崎駿は、現在のように、一見、生を楽しく彩るものが溢れているような時代に、敢えて、「いざ生きめやも」ではなく、「生きねば」と言う。
  つまりそれは、(我々は)、「生きていないじゃないか」という叫びの裏返しでもあるだろう。
 一人ひとりが不安で頼りないのは、愛する人の死の影におびえる堀辰雄と同じかもしれないが、覚悟という面で、私たちは、ちょっと不足ぎみかもしれない。

「自分一人で何かをやったところで大したことはない、だから長いものに巻かれていた方が安心、人のことより、自分(や家族)の身の安全、安心が大事。危なそうなことは、お上にきちんと管理させていればいい。学校や病院が、きちんとやってくれればいい。そもそも自分は無力だから、決められた事を、決められたとおりに淡々とこなすだけ・・・・・・。生き様がどうのこうのと、そんなのは綺麗ごと。快適で楽チンで、安心で安全な暮らしがいいに決まっている、できるだけ自分にリスクがかからないように、被害が及ばないように、他人と軋轢を生まないように、難しい問題には関わらないように、年取って衰えたら社会にサポートしてもらって、楽しく長生きできればそれで十分」という空気が、現代社会に蔓延してはいないか。
 今この大事な時に、天から命を授かったものとして、ベストを尽くして生きていると言えるかどうか。生を授かった者は、いずれ必ず死ぬ宿命になる。それが少し早いか遅いかの違いだけなのに、その最期が来るまで、できるかぎりのことをやるという覚悟があるか。
 私たちは、それなりにベストを尽くしてはいる。しかし、それは、自分を安心、安全なところに置いておきたいという弱い心の管理下にあるベストである。多くの場合、不条理な状況の中に身を投じてまでということではない。だから、自分の中の合理性に添わないものを嫌悪したり忌避したりする。
 映画の中で、多く登場されるのは、風に飛ばされる帽子である。
 まさに、一人ひとりの生は、風に飛ばされる帽子のようなものである。飛ばされ、どこに落ちるかわからない。うまい具合に誰かにキャッチされることもある。結果がどうあれ、風に飛ばされる姿そのものが、翻弄されている生であり、ハラハラドキドキする。しかし、飛ばされることで、生を確認するとも言える。
 この映画は、絶賛する人と、批難する人がはっきり分かれているのだそうだ。
 たとえば、喫煙シーンが非常に多いこと。結核を患っている妻が、主人公に、自分の傍で煙草を吸うように言い、そのとおりにすること。結核がうつるかもしれないのにキスをすること。仕事中にじっと手を握らせること。自分の最期が近いと察した妻が、一人で高原の病院に帰っていくこと等、「理解できなーーい!」、『許せなーーーい!」と、怒る人がけっこういるようなのだ。
 つまり、自分の中の合理性に添わないものは、理解できない。だから、許せないと言っているのだろう。
 そういう人にとっては、被っている帽子が風に飛ばされることも理不尽で、許せないことなのだろうか。
 しかし、そもそもこの映画は、見る者に、敢えて矛盾を突きつけてくる映画なのだ。
 最後は主人公が勝ち、その他大勢は虫けらのように死んで主人公とその恋人だけが生き残るという展開でも、観る者が胸を撫で下ろして良かったと思ってしまうハッピーエンドのアメリカ映画を見慣れているせいか、観る者を突き放すような展開や終わり方をする映画や小説に対して、不満を覚える人が多い。そうして、人々は、不条理に対する抵抗力を失っていく。もともと表現というのは、観る者に媚びるのではなく、突き放し、世の不条理を追体験させ、落ち込まさせ、そうして魂の力を高めるものだ。
 だから、宮崎駿の「風立ちぬ」は、非難されるのを覚悟のうえ、表現の原点に立ち返っている作品とも言える。
 そもそもこの映画の中では、最大の主人公である飛行機が、矛盾そのものの象徴なのだ。美しい飛行機は、戦争に使われ人を殺す道具になることが前提だ。最後には、神風特攻隊となり、一機も戻ってこなかったいう展開で終わる。子供の頃から飛行機を作りたいという夢を抱き続けた男が戦闘機を作ることでしか夢を実現できない時代に生きて、そんな男に惚れる女が結核に冒され若くして死んでいくという、人間個人の力ではどうにもならない不条理や矛盾が映画の中で突きつけられている。
 この映画の中で、主人公達とは別に、美しい存在感を放っているのは、堀越二郎の上司である黒川の妻だ。黒川は、合理的精神の持ち主であり、状況分析にも優れ、バランス感覚のいい人間である。しかし、だからといって理性的な計算ばかりしているわけではなく、人間としての情にも篤い。そして、その妻は、そういう黒川のことをとてもよく理解している。さらに、居候の堀越夫婦が、今この瞬間に結婚したいと言った時は、速やかに受け入れ、堀越の妻、菜穂子が、一人で家を去って高原の病院に帰る時も、その気持ちを察して、追いかけようとする堀越の妹を制止する。人間の覚悟や潔さに対して、とても敏感であり、どんな合理性よりも、その崇高さこそかけがえのないものだと深く理解し、それに対する心構えがしっかりとできている。もしかしたら、戦前の女性って、そういう人が多かったのかなあと思ったりするが、今は、ほとんど見かけなくなった。女性は、本能的に(かどうかよくわからないが)、安定した状態を求めるから、できるだけ不条理なことを避けたい。男のように、冒険に心躍らせるようなことは、あまりない。最近では、そういう男の行動は、ガキっぽいわね、バカだねと、白い目で見られるだけで終わってしまうような気もする。男も冒険をしなくなっているから、どうだかわからないが。
 それはともかく、黒川の妻は、世界の不条理と、そのなかで生きる人間の美意識に対する理解が深く、自らもその美意識に添って潔く生きているということが感じられ、美しかった。

・・?に続く

 

(*この絵コンテは素晴らしい。全てが詰まっている。)



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