「風立ちぬ 生きねば」について?

 そして、映画『風立ちぬ』を見た翌日にテレビで見たのは、極北の地、グリーンランドの狩人だった。

 近年、グリーンランドの氷が少しずつ溶けており、地下資源の開発を行ないやすくなり、この地の人々も、産業化の歯車の中に組み込まれつつある。子供たちも、先祖から続く狩猟生活よりも、近代的生活を望む傾向にある。将来、狩人になりたいと考えているのは、村の中でたった一人だ。
 今も現役で狩人を続ける男が言う。
 「この時代に、狩人になろうとする子供がいる。その志に報いたい。先祖から受け継いできたものを、その子に全て教えたいと」。
 他の大勢の子供達は、もっと便利で刺激の多い町で生活したいと言う。ここはやることがなくて退屈だからと。それに対して、大人達と一緒に狩りに出ている狩人志望の子供は、狩りに出ると、退屈どころか、やることがいっぱいあるのだと言う。
 贔屓目かもしれないが、狩人志望の子供の方が、いい表情をしているし、瞳の輝きも素晴らしい。
 この子供達が大人になる頃には、グリーンランドにおいても、1000年にわたって極限のなかで野生と向き合いながら生きてきたことで育まれてきた力が、完全に失われているかもしれない。そして、その力が失われると、自然に対する畏怖も敬意も失われてしまう。なぜなら、近代社会の中で凡庸に生きている私たちのように感覚が鈍くなって自然の声が聞こえなくなってしまうからだ。
 ポーライヌイットは言う。「ヒラキヒミ・・・自然の声に耳を傾けよ」と。狩人達は、自然の声に耳を傾けることなく、生きていくことはできない。
 自然は、人間に恩恵を与えてくれるが、時には容赦なく、非情で、不条理な存在だ。感覚を研ぎすまし、その声に耳を傾けたところで、安心、安全というわけではなく、危険を回避する確率を高めるだけである。
 そうした自然の前に謙虚で、そのうえで生きるために覚悟を決め、果敢に挑戦していく人間は美しい。そして、その人間を受け入れ、時に突き放す自然は、圧倒的に美しい。イヌイットのドキュメント番組を見ているだけでも、快適さや安楽さよりも、美しさの方が、生きていることの価値を圧倒的に高めるのだということを、感じずにはおれない。
 でもそれはいったいなぜなんだろう。美しいかそうでないかも、好みの問題なのだろうか。
 自己の存在の弱さ、はかなさを知ったうえで、自分に与えられた力を精一杯に発揮して生きる姿は、人の胸を打つ。それは、堀辰雄の『風立ちぬ』でも、宮崎駿の『風立ちぬ』でも、イヌイットの狩人にも共通している。それを見る人の心の内側にある感覚を揺さぶるからだ。ふだん、我々が隠そうとしている、自分の弱さ、はかなさ、それでも限られた命を燃焼し尽くして生きたいという思い。そういう感覚を揺さぶられて、涙を流すこともある。そして、不条理に対して、嘆いたり愚痴るばかりでなく、やれるだけのことをやりきろうという潔い気持ちが、湧き起ってきたりする。 
 生あるものは、いつか必ず死ぬ。我々の存在は、長い歴史の中の一陣の風のようなものである。
 しかし、風は記憶に残る。生き残ったものは、死んでいったものたちの鮮烈な美しい生き様を、自分の中を吹き渡った生々しい風のように記憶している。その記憶が、今、この一瞬を生きる自分を支える。
 イヌイットの狩人は、叔父や父親などの狩りの姿を鮮烈に記憶し、彼らから学んだ大切なことを、自分の子供に伝えようとする。今を生きるということは、記憶し、その記憶を伝え、風のように消えることである。
 映画「風立ちぬ」の中に登場する日本の美しい記憶は、この時代に至るまで、風から風へ伝えられてきたものだった。その記憶が途切れてしまうのは、多くの人が、風のように記憶を伝えようとしないからだろう。自分が生きている社会の中で起こったいることすら記憶しようとも、伝えようともせず、自分一人で完結する安寧の中に閉じこもっているからだろう。
 そういう生は、誰からも記憶されず、自分から始まって自分で終わる。イヌイットの狩人の生は、自然の非情の前に寿命としては短くなる可能性があるが、時空を超えた記憶のつながりの中にある。
 『風立ちぬ」の主人公 堀越次郎の記憶の中で、そして映画を見た私たちの中で、一瞬の愛の中で命を燃焼させた菜穂子は生き続ける。そして堀越次郎は、その一途な生を通して、不条理に満ちた世界を浮かび上がらせ、人々に記憶させる。
 人は、いずれ死ぬが、風のように、記憶の中でいつまでも生き続ける。そんなこと言っても死んでしまったら意味はない、と思う人は、死なずにすむ方法を獲得しないかぎり、救いはない。

 

 

(*この絵コンテは素晴らしい。全てが詰まっている。)



風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19

新品価格
¥3,675から
(2013/10/5 15:02時点)