当たり前が、当たり前でなくなる時

 一昨日は、日本の製造業の改革につながる仕事をしている若い経営者と会って食事をしたが、その翌日の集まりも、すごかった。製造業の改革の話ならば、ふだん自分が使っている脳のエッジの部分で対応できる。しかし、昨日の集まりは、自分の脳の中に潜んでいるかもしれないが、その回路を使うことがあまりない私にとって対応する言葉がまったくない状態に陥る時間。それは、日本の超能力の世界ではよく知られている秋山眞人さんや、霊能力のある女性との飲み会だった。
 小説家の田口ランディさんも一緒だったが、ランディさんは、UFOの小説を書いたり、以前から超能力関係の人達との交流があるので、そういう状況に慣れている。
 私も、心理的には抵抗はない。というのは、小学校時代、私の家の隣に本物の霊媒師の女性が住んでいて、超常現象を見せられることが時々あったからだ。
 その頃は、とくに強烈なものを見せられているという感覚でなく、ぼんやりとそれを見ていた。しかし、おそらく自分の潜在意識に植え付けられてしまったのだろう、中学生から高校生くらいまでの間、異常に幽霊が恐い時期があり、特に試験勉強とかで夜遅くまで起きていることが、とても苦手だった。ちょっと脳裏に思い浮かべるだけで鳥肌が立ち、夜中の二時まで起きるような状況の時は、1時50分頃から2時10分頃まで布団の中にこもっていた。
 幽霊嫌いの性質は、その後、海外放浪などを重ねていくうちに、肝がすわってきたのか、かなり改善され、今だと、出るものなら出て見やがれ、という気持ちでいられる。
 それはともかく、私の小学校時代の隣人はすごかった。当時、テレビに霊媒師がよく出ていて、「お答えします」という台詞でパフォーマンスを行なっている姿を見たことがあるが、隣人の霊媒師はまったくそういうタイプではなく、いつもニコニコしているだけで、何も話さない。見るからに人のいいことが伝わってくる普通のオバさんだ。私の亡き母は、なぜかいつも近所の人と折り合いが悪いのか、半年に一度くらいの割合で、同じ明石市内を引っ越しをした。小学生2年生から5年生の間に5回引っ越しをして、三つの小学校に通った。転校するたびに一定期間苛められたが、体力があったということもあって、それが数ヶ月以上続くことはなかった。
 そのように周りとあまり馴染めなかった母の大親友が、その霊媒師だったのだ。
 彼女は、たとえば、私の祖母が家に来る時など、祖母が来る2時間も前から私の家にかってに上がり込んできて、部屋の片隅にじっと座り込んでいた。私の母は、彼女のことをよくわかっているので何も言わずに、好きにさせている。それからしばらくして祖母が到着すると、その霊媒師は、急にあくびをし始め、次第にそれが速くなってきて、突然、身体をブルブルと震わせ、激しくのたうつように動かし、憑依してしまう。そして若い女性の声になって、泣きながら何かを訴えるのだ。その時、霊媒師が口にした言葉は、だいたい今でもはっきりと覚えている。
 たとえば、それが祖母の亡くなった娘だったり(私の母は女性ばかり六人の姉妹の長女で、その時点で3人の妹が若くして病のために死んでいた)すると、祖母以外知らないことを訴える。そうすると祖母は、泣きながら、謝ったりしていた。
 そして、しばらく経って、霊媒師はまたあくびを速いリズムでし始め、次第にゆっくりとなり、パタッと止んだら、いつものオバさんに戻り、キョトンとしている。
 そのオバさんのことをよく知っている私は、それが演技などとは到底思えず、世の中にはそういうことがあるのだと植え付けられている。私には超能力とか霊能力を発揮する回路は開かれていないが、そういう回路が開かれている人が存在するだろうということは、わかっている。
 しかし、その人達とコミュニケートする言語を持たないため、何をどう話をすればいいか戸惑う。見透かされるとか、そういうことは思わないのだけど、見ている現実が違うことがわかるので、なんといえばいいのか戸惑うのだ。
 このことについて、一昨日の集まりで秋山さんが口にした言葉で、私にも納得感を伴うものがあった。
 秋山さんのすごいところは、自分の能力を俯瞰して見て、それを表現できる驚異的な言語力を持っていることだ。その脳内回路はすごい。もともとアスペルガーの人に多い特定の物事に対するこだわりと、その物事への記憶力が素晴らしいという体質を持っているのだろうが、固有名詞や固有の事実に関する記憶がものすごく緻密で、それらの物事が体系的に組み上げられており、かつ相対化できるように無数の事例が整理されており、そこから自由自在に取り出したり戻したりできる。内側の底深いところに集中していく偏執的な側面と、外側の広いところに解放していく融通無碍が同居している。だから、現実と超現実を自由に言ったり来たりできるのだ。秋山さんが、他に多く存在している超能力者と少し違うところは、そこだろうと私は思う。
 自分の特殊性を俯瞰して見渡せること。それは自分を客観視することとも少し違う。自分を客観視するというのは自己分析になり、堂々巡りになる。俯瞰して見渡すというのは、自分を観察するのではなく、自分がなぜそういう状況になっているのか環境世界も含めて理解して自分を捉えなおすということだ。
 例えば、自分が特定の食べ物を好きだとすると、その事実だけにとらわれてしまうのではなく、子供の頃の影響とか、背後にあるいろいろな条件に考えが及ぶという状況。その背後の条件を、これだと固定化して偏狭な視点に陥ってしまうのではなく、だったらなぜその条件が生じたのか、さらにその条件の背後の条件をさらに辿っていく思考。それを続けていくと、思考が、人類の歴史全体、さらに宇宙全体まで広がっていく。秋山さんという人は、そういう思考の運動力を持っており、さらにそのようにして自分がアンテナを張って獲得した知識を、自分の中にしっかり焼き付ける記憶力を持っている。特殊な力を持っているという自分の不安定さを克服し社会性を獲得するための自分で編み出した方法なのだろうと思うが、まさに超人だ。胡散臭そうに見えるけれど、まったく胡散臭くない。
 多くの超能力者は、その俯瞰の眼差しがないゆえに、自分の特殊性とそれ以外の世界が、対立的に感じられてしまうので、精神的な葛藤が大きくなり、もともと不安定だったのに、さらに不安定になってしまい、社会的に破綻してしまうケースも多いらしい。周りに非常にバランス感覚の優れた人がいて、その人が特殊の側にいきすぎないように深い愛情をもって支えながら現実生活を営めるように調整してくれるという幸運があればいいのだけれど、その特殊性を利用しようとする悪人や、偏見の目で見る人も世の中には多い。
 それで、秋山さんが口にした言葉で、私にもとても納得感があったのは、次のような言葉だ。
 「超能力というのは、人間が本来持っている力であるけれど、社会的に何かしらのバイアスがかかってでにくくなっている力を、確率的によりよく出してしまう力だということ。」
 つまり、超能力が特殊なのではなく、何かしらの作用で、そのバイアスの鍵みたいなものが外れてしまっているのだ。だから、そのバイアスを秩序だとみなしている社会のなかでは、異常として扱われる。
 社会というのは、バイアスのかかった状況を秩序だとみなして成り立っており、そのバイアスを共同幻想のようにみんなが信じ込むことで、その共同幻想の中の常識の枠組みの中に一人ひとりは閉じ込められているのだけど、安心も得ることができる。
 脳の全てを活性化させると、刺激が多すぎて脳がパンクしてしまうから、脳の中に使うところと眠らせるところを作っておくことで安定を計るということだ。
 民主主義、資本主義、物理科学など今日の世界を覆う価値観も、いいとか悪いとか、正しいとか間違っているとかは関係なく、脳の使い方としてそういう癖がついている状況を多くの人が共有し、かつ教育などでその癖を多くの人に定着させることで、人間社会の秩序を安定させようとしている脳の運動にすぎない。
 それが何かの拍子に、180度転換することは当然ある。これまでの人類の歴史を見れば明らかだ。
 そこまでの話にならなくても、たとえば、言語習得の為の聴覚の領域に関しても、同じことが言える。
 日本人は英語が苦手だとよく言われるが、その原因は文法の違いだと私は思っていたが、言語の周波数音域の違いが大事らしい。
 言語によって優先的に使用される周波数音域があり、日本語は125〜1500ヘルツ、イギリス英語では2000~12000ヘルツ、米語では800~3500ヘルツ、ドイツ語では100〜3000ヘルツの周波数帯が優先的に使われているらしい。そして、ある言語を話すようになると、その言語に優先的に使われている周波数帯の音に対しては自動的に聞き取れるようになるが、それ以外の周波数域の音は聞こえていても聞き分けることができなくなってしまうらしいのだ。だから、アメリカ人には明確に音として聞こえる発音を、日本人が聞き取れないのは当然で、何もないと感じてしまう。
 これはたぶんそうだろうと思う。物事に集中するには、できるだけ雑音がない方がいいのだから。
 また、使わない筋肉は衰えていく。険しい山道をずっと走り続けているタラフマラ族は、100kmのマラソンでも平気で草履で駆け抜けていく。
 当たり前のことというのは、世界の中に固定して存在しているのではなく、感じとる側の脳が、それを当たり前のものとして感じるような状況になっているだけのこと。脳の回路が変われば、それまでの当たり前は、当たり前でなくなってしまう。
 そして、おそらくそれはトレーニングによっても可能なこと。しかし、それまでの当たり前が当たり前でなくなるのは、面白く快感でもあるし、不安でもある。これもまた、自分の脳の癖が、どちら側に偏っているかによって異なってくるのではないか。
 できるだけ変化を避けて生きている人は、変化を不安に感じる癖がついているだろうし、変化を積極的に受け入れて生きている人は、変化を面白く感じる癖がついているだろう。
 どちらがいいとか悪いではなく、そういう脳の癖なのだ。
 いくら国際化の時代だからといって、子供の頃から英語漬けにすれば、そのことによって眠らされる脳の部分が生じるだろうし、逆もまたしかり。
 脳に癖がついて、世界を偏見の目で見た方が、その方面にエネルギーを集中できて、社会的に成功することもあるかもしれないが、もし世界の価値観が大きく変貌してしまったら、偏見の目が、変化への対応力を殺いでしまう可能性も高い。
 だからといって、柔軟すぎると、何に対しても中途半端になってしまうかもしれない。
 正しい結論はどこにもない。

 その前提で、超能力があろうがなかろうが、秋山さんのように、自分の状況を俯瞰の目で眺め渡す視点を獲得することで、その時々に必要な回路を、絶対的にではなく相対的に導き出すことが、生きる智慧というものなのかなあと思う次第。

 それもまた。正しいか間違いか、よくわからないけれど。


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