悪意があるかどうかではなく、畏れがあるかどうか。

 なんとか細胞のことで世間が騒いでいる。権威ある雑誌に掲載された論文に捏造がある、いやそうではなく単なる未熟者のミスであると。

「この研究が人々の役に立つようにという思いで研究しており、画像データを変えたのは、より見やすいもの、わかりやすい方がいいという判断であり、自分の気持ちとしては善意であり、断じて、悪意ある捏造ではない。違う画像が入っているのは、単純なミスであり、正しい画像は他にある」と一方が主張すれば、「だったら、正しい画像の証拠を出すべきだ、それが科学的態度だ」という意見もある。
 「なんとか細胞というのを、他の研究者は誰も再現できない、だから実際には存在しないのではないか」と問われれば、「間違いなく存在する、しかし、それを再現するには、ちょっとしたコツというかレシピみたいなものがある」と反論する。
 そして、「法的に捏造だと論証できるのか」と誰かが言えば、「科学に法律を持ち込むのはおかしい、科学コミュニティの中で通じる言い分なのかどうかが問題だ」と言う人もいる。

 まあ、論文をめぐる議論のようであるが、その論文の対象になっているのは、”胎盤などの組織を作れる万能細胞を、簡単に人工的に作り出せる”というふれこみの実験である。
 つまり、生命現象に人間の手が介在するという、冷静に考えれば、ちょっと恐い領域の話である。
 当然ながら、「善意で、ちょっと弄ってみたら失敗した、未熟でした」というレベルの話ではない。「ちょっとしたコツ」とか「レシピ」という言葉も気になる。「ご希望があれば、どこへでも出ていって、クリアできることをお見せしましょう」というのも、なんか奇妙。テレビゲームで、難関をクリアしてゴールに辿り着くテクニックの話ではないのだから。
 生命科学という領域が、まさかそのようなゲーム感覚になっているわけではないだろうが、(この研究者の言い分が科学的態度ではないと批判する人も、ゲームの中で、ルールを守れといっているだけのようにも聞こえる)、善意であれ悪意であれ、生命科学が、たとえ病気で苦しむ人を救うためであるにしても、身体の器官を、機械の部品のように扱っていることは否定できないだろう。
 恐いのは、その感覚がどんどん麻痺していった先に、何が起こるかだ。
 原発だって、最初は、核の平和利用であり、理想のエネルギーで人類を幸福に導くものであると言われていた。あたかも、核が、人間に管理可能なものであるかのように。そして、今もまだ、そう信じ込んでいる人は大勢いる。
 細菌を殺す手段を身につけて病気を治してきた。化石燃料を利用する手段を身につけて、
人間の身体負担を少なくしてきた。そういう実績が、化学や科学に対する自信というか、傲りにつながっているのだろうと思う。しかし、細胞そのものに手を入れることや、原子核に手を出すことは、従来の単なる延長線上のことではないと感じる。
 それらは、人間が地上の生活を通して積み上げてきた五感の経験を、超えるものだ。部分を取り出して、その振る舞いを研究したり解釈することは可能だろう。しかし、その部分が全体とどう関わっているか、わからないことが多い筈だし、それがたとえ90%わかるにしても、残りの10%、いやたった1%の不明瞭なものによって大逆転されるということが、可能性としてあり得る。100%大丈夫ということは、あり得ないのだ。ゲームの世界でも、9回の裏、ツーアウトから逆転されることはあるだろう。問題は、勝ち負けのことではない。原子核や細胞に手を出すことは、大逆転された時の禍いが、想像を絶するスケールに広がる可能性があるということだ。原発の被害は記憶に新しいが、生命の化け学の場合も、おそろしいウィルスを作り出してしまう可能性だってある筈だ。
 もちろん、だからといって、一切の科学を否定しているわけではない。生物だって、太古の昔から変容し続けているように、人類だって変容する宿命のなかにあると思うし、他の生物に比べて大脳皮質を巨大に発達させた人類は、その大脳皮質を使って(科学というのはたぶんそういうものだろう)、変容していくこともあるだろうと思う。
 しかし、たった1%でも想定と違ったら大逆転されるかもしれないという畏れを失くしてしまうと、どうなってしまうのか。
 そういう畏れは、数億年の経験を積み上げてきた小脳は敏感かもしれないが、生物的にはまだまだ経験不足の大脳にとっては、苦手な感覚なのではないか。
 理屈はよくわからないけどなんだか気味が悪いという感覚は、科学的にはバカにされるかもしれないが、小脳の感覚としては、案外、的を得ていたりする。
 今回の何とか細胞の騒動、私は科学者ではないので、科学的にどうかという判断はできない。しかし、おそらく小脳の領域なのだろうが、何だか変だなあ、気味が悪いなあという感覚はある。メディアのネタに使われても研究者のポジションを守るために弁護士の助言を受けながら必死の主張を展開する研究者も、未熟な研究者を責任者にした責任には眼をつぶって組織防衛に必死の組織も、おかしい。
 連日、メディアがこの攻防を面白おかしく取り上げ、ばかばかしいと冷静になる人もいるだろうが、社会の大勢は、何だかおかしい(ちょっと理解できないというミステリアスもあるが、多くは滑稽という意味で)という感覚を共有しているから、格好の餌食になってしまっているのだろう。

 理研という組織は、税金が投入されているにしても、独立行政法人であるので、いちおう法人ということになっている。
 これが一企業(法人)だとすればどうだろう。会社が課長に抜擢した人間が、ミスなのか捏造なのかわからないが間違った報告書を書いて世間を騒がせた。そして、その報告書は、部長も見ている。その場合、課長が事実を歪めて部長に報告書を出したので、部長には責任がない、ということにはならず、当然、部長が管理責任を問われる。
 というか、苦情処理で、部長がそういう論理で対応したら、お客は怒りまくるだろう。それが社会的通念だ。社会通念と科学は別ものだと科学者が傲慢にも思っているとしたら、これに限らず、また世間が苦笑いするような珍事が繰り広げられるにちがいない。
 珍事だけですめば、まだマシだ。畏れをなくし、自分の頭脳(大脳領域だけ)の優秀さに傲り、社会を見下し、人類の進化・発展の為のミッションだと盲信して”自己流”で突っ走り、誰もそれをチェックできず止めることもできず、善意という自己陶酔によって自分の都合のいいように改竄を繰り返していけば、どういうことが起こるのか。
 ましてや、生命現象という、われわれの存在の根っこにあるものが対象になっている。
 いくら大金が動くビジネスになってしまっているからといって、それを、競争原理に組み込まないでほしい。小脳は、生き残りのためにどうするかについて、とても敏感。だからといって勝ちにはこだわらない。必要に応じて退却する。勝ちにこだわるのは、小脳に刻まれた畏れの記憶ではなく、大脳が無制限に膨らませる虚栄心によることが多い。



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