”のさり”と、”悶え神”

Photo石牟礼道子さん(撮影:佐伯剛)


生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し (空海『秘蔵宝鑰』)

 まもなく発行される風の旅人の復刊第4号(第48号)<2014年6月1日発行>のテーマ、「死の力〜来し方、行く末  Memento mori」の根底に流れているのは、空海のこの言葉である。

 生まれ生きていくことは、辛く悲しいことが多い。そして、必ず死ぬことが定められている。
 次々と生まれてきても、全て死んでいく命。それでもまた生まれる命。
 死ぬことが定められていて、生きていることが苦痛であるならば、何故、生まれてくるのか?
 いくら死んでも、どんなに辛く悲しくても、次々と生まれてくる。
 無限に生まれ、全てが死ぬ。そしてまた生まれる。それが永久に繰り返される。
 生は死を孕み、死は生を孕んでいる。その、ギリギリのせめぎ合いに、命の本質がある。

 そういうことを誌面を通じて浮かび上がらせることができればと願って、この半年、取り組んできた。

 この究極のテーマについて、うまくいっているかどうかわからない。しかし、一度は必ず取り組まなければならないテーマでもある。

 「死の力というテーマは、復刊第1号の「修羅」から、復刊第3号の「妣の国へ」と至るなかで、必然的に導き出されたものだ。
 前号の「妣の国へ」のなかで志村ふくみさんをインタビューした時、”のさり”という言葉が出てきた。その”のさり”という言葉から、復刊第4号の「死の力」というテーマが生まれ、石牟礼道子さんにインタビューをお願いすることになった。
 これは、半世紀前、水俣病の深刻な被害のなかで、啓示のように出てきた言葉だ。もともと熊本の方で、良いことも悪いことも天のはからいという意味をこめて、”のさり”という言葉を使っていた。

 ”天のはからい”だからといって、何があっても簡単に諦めてしまうという単純なことでもない。”のさり”という言葉を生んだ地には、”悶え神”や、”悶えて加勢する”という言葉もあった。病気や何かしらの出来事で苦しんでいる人がいる時、その苦しみは当人にしかわからないかもしれないし、他の人間にはどうにもできるものでないかもしれない。そもそも天のはからいであるならば、他人がどうにかするという問題ではなく、ただ見守るしかないのかもしれない。しかし、見守る人間もまた、自分の苦しみのように悶える。悶えるだけで他に何もできないけれど悶える。そういう心が、人間の中にはある。

 ともするとゆるぎがちな人間性への信頼は、悶えて加勢するという心がまだ人間の中に残っているということを確認できるだけでも、少しは取り戻せるのではないか。

 石牟礼さんのお話をうかがっていると、そういうことを強く感じた。

 いくら心で思っていても行動しなければ何もしないのと同じだとよく言われるが、何かをするというのは、本当に誰かの為なのか。もしかしたら、けっきょく自分のためではないのかと、考えれば考えるほど、そういう疑問が心の中に浮かんでくることもある。
 そして実際に、手を差し伸べるとか、何かしてあげるとか、軽々しく言えない出来事が多い。

 ”のさり”、そして、”悶えて加勢する”という人間の境地。生死のはざまで苦しんで苦しみ抜き、考えに考え抜いたところで、どうにもならない迷路の行き詰まりの暗闇の中に立ち尽くし、それでも、人生が生きるに値するものだと希望をつないでいくための叡智がそこにこめられているように感じられる。
 石牟礼さんの悶えの文学は、そういう意味で、希望の文学なのだと思う、

 写真は、今年4月6日に取材した石牟礼道子さん。(撮影:佐伯剛)
 今年の3.11で87歳になった。重篤なパーキンソーで闘病中だが、その童女のような表情が忘れられない。

 

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