写真の新しさ!?

 一昨日、大阪ビジュアルアーツに来て鬼海弘雄んの話を聞いた人の多くは、きっといい話を聞いたなあと、しみじみとした手応えを感じて帰っていったのではないかと思う。写真の技術的な話を期待してきた人は、ちょっとあてが外れたかもしれないけれど・・・。
 鬼海さんの話は、一貫して、対象との向き合い方、付き合い方、対象の何を大事にするかという話。そういう話のなかには、鬼海さんの人生論が、濃密に込められている。けっきょく写真というものは、その人がどう生きてきたか、どう生きていこうとしているかが、濃密に反映される表現手段だということがよくわかる。写真、とりわけ人に見せることを目的に写真表現を行なっている人の写真には、善かれ悪かれ、その人自身が出ていると考えていい。

 テクニカルな話に眼を曇らされてはいけない。そういう脇にそれた話は無視して、写真そのものとじっくりと向き合い、その写真の裏側にある撮影者の魂を感じとる。写真鑑賞というのは、そういうものだ。人間が撮っているかぎり、純粋に客観的な写真なんてない。

 何に心を動かされて写真を撮るかという時点ですでに、撮影者の世界や人間への思いが詰まっている。人間や世界に対して、考えに考え抜いて、様々な思いをいっぱい心に抱えていて、その様々な思いを何とか形にしたいと願って、その思いが深く広大であればあるほど、それを形にすることは難しくて、できないできないと嘆きながら、地べたを這うように進んでいる。鬼海さんの写真や語りには、そういう言うに言われぬ思いがいっぱいに詰まっている。人生や世界に対するその真摯さこそが、鬼海さんの写真の命であり、重力だ。

 もしかしたら20世紀は、人生や世界というものに対して真摯に向き合うことを疎かにしていた時代ではないか。
 もちろん、一人ひとりは一生懸命に自分の務めを果たそうと努力してきた。しかし、分業化され、取り替え可能な歯車の一つを担う自分というものを強く意識させられているうちに、人生とか世界なんて大それたことは言ってられない、自分が生活していくために必要な歯車の周辺機構だけに関心を寄せていればいいという感覚に、知らず知らずなってしまっているのではないか。自分の生活維持には真摯であるけれど、人生や世界に対しては、決して真摯とは言えない状況が、20世紀の生き方だったのではないか。
 もしも21世紀の表現において、写真が重要な役割を果たすとすれば、現象を造形化する表現実験の分野で名をあげることを目標にしてきた20世紀型のアートシーンに追随するような写真ではなく、人生や世界というものに対して、どうすればいいかわからず悶えながらも堂々と向き合っているような写真表現ではないか。そういう写真には、それを撮っている人間の生き様が必ず反映される。
 私は、風の旅人を10年以上続けてきて、数多くの写真家と出会い、膨大な写真を見てきたが、どうにも嘘っぽいなと思わされる写真や写真家と仕事はできなかった。私が感じる”嘘っぽさ”というのは、人生や世界に対して斜めに見ていたり、そもそもそちらの方向などまるで見ておらず、世の中の現象や、その現象のなかの自分のポジションばかり気にしているという感覚とでも言おうか。
 その人の生き様と写真を切り離すことはことはできない。写真の学習にあたって、近頃の写真専門学校や大学の写真関係部でよくあるような、技術や、写真界の動向などから分析するようなスタンスはもはや意味はない。そんなものは、適当にパソコンを叩いていれば出てくる情報にすぎない。そんなことより、まずは、どう生きるかだ。そして、世界はどうなっているのか。その世界に対して、どう向き合っていくのか。そういうことから始めなければならないのではないか。
 鬼海さんの話を聞きながら、そういうことを強く感じた。鬼海さんは、いわゆるエリートと言われる20世紀の世間でカッコいいとされた生き方とはほど遠い生き方をしてきた。山形の田舎で育ち、作物は作るものではなく育つものだと親に教えられ、人生や、写真を、作るのではなく、肥やしをまいて育ててきた。人生を育てるのではなく”作る”というのは、どういう肩書きを得て、どういう人間と付き合えば、どういう風にうまくやっていけるかといったことを計画し、その計画にそって人生を作っていくということだ。写真をやりながら、経歴を作ることに一生懸命の人はけっこういる。(学問もそうだ)
 鬼海さんは、写真のことを深く考えるために、しばらく写真から離れることを考え、マグロの遠洋漁業の仕事に従事する時もあった。人生の全ての体験が、人生の肥やしであり、写真の肥やしになって、そこから作物が育っていった。
 鬼海さんの話を聞きながら、そういうことを改めて感じた私は、京都で、人生×写真の塾みたいなものをやりたいと思った。
 今、あちこちで流行りの写真のワークショップ、プリントの焼き方とか、デジカメの使い方といった小手先のことではなく、人生と写真が重なり合う写真塾。写真は、真実を写す手段の筈であり、ならば、写真を撮る前にどう生きるかを真剣に考えることが先だろう。鬼海さんのような、それを地でいっている人達の力を借りながら、そういう場を作りたいと改めて思った。
 オシャレで知的なワークショップや写真イベントなどは、自分には向いていない。もっと泥臭い感じで、やればいい。

 なぜ、写真にこだわるのかというと、私は、写真というものが、150年くらい前まで詩が果たしてきた役割を、現代社会において果たせる可能性があると思っているからだ。

 150年くらい前まで、詩が、あらゆる芸術表現の先頭を走っていた。現代詩の現状をみるかぎり、今では想像しにくくなっているが、詩人がつかまえたイメージに触発され、絵画や音楽など、他の芸術表現の潮流が起こっていたのだ。

 感性鋭い詩人が、新しい時代の突破口となり、それゆえ、詩人は尊敬されていた。詩人の次の一手を、他の芸術家達が注目していた。

 現代のように錯綜とした時代において、かつてのように詩によって時代の核心をつくことは簡単なことではないのかもしれない。詩人もまた、イメージを触発される何かが必要なのかもしれない。私は、そのイメージを触発する力が写真にあると思っている。

 写真には、あらゆる芸術活動の先頭を切る可能性がある筈なのだ。しかし、そのことに無自覚な、無責任に世界や人間を処理する写真が氾濫していることも事実であり、写真の罪もまた大きい。

 そうした写真の罪を拭い取るような力があり、かつ、他の芸術表現者たちに,新しい時代の到来のインスピレーションを与える写真こそが、今、待たれている。

 しかし、注意しなくてはならないのは、”新しさ”というのは、決して変遷著しい20世紀的の社会現象の延長線上にある趣向を変えた新現象ではないということだ。

 新しさというのは、50年経っても10年経っても、普遍の価値なのだ。2500年前に仏教が誕生した時の仏教こそが、新しさなのだ。

 鬼海さんの新刊である、『世間のひと」に、私は、そうした普遍の新しさを感じる。このコンパクトな写真集は、鬼海さんの人生×写真が色濃く反映された傑作である。

 一見、泥臭さを感じるかもしれないが、これが21世紀の、カッコ良さとなってほしい。『鉄の男』や『死とダイヤモンド』でよく知られ、20世紀の”世界”を映像から捉えるうえで欠かせないポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダは、鬼海さんが撮った人々の写真を見て、「これは日本人なのですか? あまりにも私たちに似ている」と言った。

 鬼海さんが、日本人とか欧米人という垣根を超えて、人間という普遍性に達していることを、この偉大な映画監督が一目で看破したのだ。

 その言葉を聞いて、鬼海さんは、『勝った!』と思ったと言う。誰に勝ったとかではなく、自分が命懸けでやってきたことが、ちょっとは報われた、理解してくれる人がいた、という手応えを、「勝った!」と表現したのだろう。

 アンジェイ・ワイダは、鬼海さんの写真の中の一人の人物を見て、サミュエル・ベケットの戯曲に登場する悩み多き男たちを連想すると言う。

 鬼海さんの写真の中の人達は、”人間”というものを演じる見事な役者だ。日本人とか欧米人とか、関係なく。

 100年後、欧米人がこの写真集を見る時、エキゾチックな日本人を感じるのではなく、自分および隣人をイメージする。それが、今、求められる写真の新しさだ。

 ”ちょっと変わった日本”に関心を寄せる一部の欧米人がもてはやす日本のアートは、10年も経たないうちに消費されるだけだろう。そんなのは新しさではなく、ちょっとパッケージを変えてみた、という程度のことにすぎない。



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