一昨日、大阪ビジュアルアーツに来て鬼海弘雄さ
鬼海さんの話は、一貫して、対象との向き合い方、付き合い方、
テクニカルな話に眼を曇らされてはいけない。そういう脇にそれた話は無視して、写真そのものとじっくりと向き合い、その写真の裏側にある撮影者の魂を感じとる。写真鑑賞というのは、そういうものだ。人間が撮っているかぎり、純粋に客観的な写真なんてない。
何に心を動かされて写真を撮るかという時点ですでに、撮影者の
もしかしたら20世紀は、人生や世界というものに対して真摯に
もちろん、一人ひとりは一生懸命に自分の務めを果たそうと努力
もしも21世紀の表現において、写真が重要な役割を果たすとす
私は、風の旅人を10年以上続けてきて、数多くの写真家と出会
その人の生き様と写真を切り離すことはことはできない。写真の学習にあたって、近頃の写真専門学校や大学の写真関係部でよくあるような、技術や、写真界の動向などから分析するようなス
鬼海さんの話を聞きながら、そういうことを強く感じた。鬼海さ
鬼海さんは、写真のことを深く考えるために、しばらく写真から
鬼海さんの話を聞きながら、そういうことを改めて感じた私は、京都で、人生×写真の塾みた
今、あちこちで流行りの写真のワークショップ、プリントの焼き
オシャレで知的なワークショップや写真イベントなどは、自分に
なぜ、写真にこだわるのかというと、私は、写真というものが、150年くらい前まで詩が果たしてきた役割を、現代社会において果たせる可能性があると思っているからだ。
150年くらい前まで、詩が、あらゆる芸術表現の先頭を走っていた。現代詩の現状をみるかぎり、今では想像しにくくなっているが、詩人がつかまえたイメージに触発され、絵画や音楽など、他の芸術表現の潮流が起こっていたのだ。
感性鋭い詩人が、新しい時代の突破口となり、それゆえ、詩人は尊敬されていた。詩人の次の一手を、他の芸術家達が注目していた。
現代のように錯綜とした時代において、かつてのように詩によって時代の核心をつくことは簡単なことではないのかもしれない。詩人もまた、イメージを触発される何かが必要なのかもしれない。私は、そのイメージを触発する力が写真にあると思っている。
写真には、あらゆる芸術活動の先頭を切る可能性がある筈なのだ。しかし、そのことに無自覚な、無責任に世界や人間を処理する写真が氾濫していることも事実であり、写真の罪もまた大きい。
そうした写真の罪を拭い取るような力があり、かつ、他の芸術表現者たちに,新しい時代の到来のインスピレーションを与える写真こそが、今、待たれている。
しかし、注意しなくてはならないのは、”新しさ”というのは、決して変遷著しい20世紀的の社会現象の延長線上にある趣向を変えた新現象ではないということだ。
新しさというのは、50年経っても10年経っても、普遍の価値なのだ。2500年前に仏教が誕生した時の仏教こそが、新しさなのだ。
鬼海さんの新刊である、『世間のひと」に、私は、そうした普遍の新しさを感じる。このコンパクトな写真集は、鬼海さんの人生×写真が色濃く反映された傑作である。
一見、泥臭さを感じるかもしれないが、これが21世紀の、カッコ良さとなってほしい。『鉄の男』や『死とダイヤモンド』でよく知られ、20世紀の”世界”を映像から捉えるうえで欠かせないポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダは、鬼海さんが撮った人々の写真を見て、「これは日本人なのですか? あまりにも私たちに似ている」と言った。
鬼海さんが、日本人とか欧米人という垣根を超えて、人間という普遍性に達していることを、この偉大な映画監督が一目で看破したのだ。
その言葉を聞いて、鬼海さんは、『勝った!』と思ったと言う。誰に勝ったとかではなく、自分が命懸けでやってきたことが、ちょっとは報われた、理解してくれる人がいた、という手応えを、「勝った!」と表現したのだろう。
アンジェイ・ワイダは、鬼海さんの写真の中の一人の人物を見て、サミュエル・ベケットの戯曲に登場する悩み多き男たちを連想すると言う。
鬼海さんの写真の中の人達は、”人間”というものを演じる見事な役者だ。日本人とか欧米人とか、関係なく。
100年後、欧米人がこの写真集を見る時、エキゾチックな日本人を感じるのではなく、自分および隣人をイメージする。それが、今、求められる写真の新しさだ。
”ちょっと変わった日本”に関心を寄せる一部の欧米人がもてはやす日本のアートは、10年も経たないうちに消費されるだけだろう。そんなのは新しさではなく、ちょっとパッケージを変えてみた、という程度のことにすぎない。