生命力について考える

 「京都21世紀教育想像フォーラム 日本の未来と人づくり」と題し、グローバル時代に対応する為にどのように生きるかを考えるシンポジウムの内容が、今朝の京都新聞で大きくページを割かれて伝えられていた。京都に限らず、随分と前から日本のあちこちで、この種の催しが行なわれている。

 立派な肩書きを持つ人達が講演者となり、会場には大勢の人がつめかける。多くの人が関心を寄せるテーマなんだろう。また、未来を作り出すという社会起業に関するセミナーや、集まりも各地で行なわれている。
 この種の集まりを見ていつも感じるのは、講演者が自分の意見を発信するのを聞くだけなら、自分が関心ある分野の本を選び、それを読んだ方が内容が充実しているし、読みながら自分の思考を深めていくのではないかということだ。
 講演会や起業家セミナーの多くは、社会的成功者?の有り難いお話を聞くというスタンスになっている。また成功者が話すモデルケースは、それで成功したのだからという理由で説得力を獲得してしまうが、”結果”に添うように原因を抽出した類のものが多く、実際には複合的な要素が複雑に重なり合って生じた結果であるという事実が、隠されている。
 にもかかわらず、言葉に対して受け身で能動的に思考するスタンスでない聞き手は、”参考になる話”を聞いたような気持ちになってしまう。
 なんでもそうだが、主体的に取り組まないと、能動的に思考できないし、能動的に思考できなければ主体的に何かに取り組むことはできない。
 美術や写真の展覧会などでも、見栄えよく整えられた部屋に、きれいに飾るだけのものが多いが、シンポジウムも、体裁が悪くならないような講演者を集め、滞りのないような進行の仕方で、気まずくなるような議論は避ける方向でまとめられる。有名な画家の絵を見たり有名な人の講演を聞いて満足することが、文化と称されているようだ。
 来る人を突き放すような講演って、ほとんどない。多くの講演会や展覧会には、スポンサーがついていているから、来る人の機嫌を損ねるようなものは避ける傾向にある。
 社会起業家を目指す人のセミナーも、グローバルセミナーも、語学の習得や自国文化を知ることの大切さなどステレオタイプに繰り返される言葉をなぞるだけだと芸がないから、自分で考える力とか、その人らしさとか、時代の潮流を読む力などが説かれるが、そもそも、社会起業を行なう人や、グローバルな感覚で活動をする人が、こういう講演会やセミナーから育つのだろうかという素朴な疑問がある。
 その人らしさとか、自分で考える力というのは、「何だか違うんだよなあ、そんなんじゃないんだよなあ」という揺らぎから芽生えていくことが多い。
 私がこういうことを書いているのも、批判自体が目的なのではなく、自分が感じる違和感を根っこにして、ならばオマエはどうするのだという自分への問いと、それに対する考えを深めていくことで、自分という場を耕していくためだ。
 人が準備した畑に種を蒔いて作物が実れば、楽しさや嬉しさを享受できるかもしれないが、根本のところがよくわからないままだと、なんだか落ち着かない。
 根本のところがわかってこそ、どういう事態に陥ろうとも諦めずに踏ん張れば対応の術を見つけ出すことができるのではないかと、自分を冷静に保つことができる。
 立派な人の講演会やセミナーで、「自分を変える力」とか、「柔軟な対応力」とか、「周りの傾向に安易に流されない力」などが大切だと説かれ、それらの言葉は間違ってはいないので、聞いている人達はウンウンと素直に頷いている。
 しかし、たとえばこういう大ざっぱな言葉を、5、6人くらいの集まりで語ると、とても違和感が生じる筈だ。違和感を生じなければ、一種の宗教的麻痺状態になっていると言える。
 個人を明確に識別できない不特定多数の場だからこそ通用してしまう標準的な言葉というものがある。そして、社会的にブランディングがなされている人物を登場させることによっても、一種の宗教的麻痺状態に導くことはできる。
 でも本当は、内容そのものの力によって脳を刺激され、答えにならないモヤモヤとしたものをいっぱい抱え込まされ、なんなんだろう、なんなんだろうと自問自答させられるような場でないと、自分を変える力とか、柔軟な対応力とか、安易に流されない力は、育まれないのではないか。
 しかし、そのようにスッキリしない場は、不人気で、人が集まりにくいので、スポンサー付きの催しには不向きだ。
 全ての人間が表現者や、起業家や、外交官になるわけではないし、なる必要もない。
 また、一人の人間で完全な人などいない。個で完結する生命体も存在しない。だからといって、他者に依存するために個が集まって肩を寄せ合えばいいというわけではない。
 個には、それぞれ役割があり、自分の役割を見いだして、その役割を果たそうと一生懸命になりながら、自分にはあって他者にないものがあれば他者を補完し、他者にはあって自分にないものを他者に補完してもらう関係力を身につけていくことが、”生命力”の根幹にある。
 
 標準化されやすい正しさは、全体には通用しやすい論理かもしれないけれど、それは、本当に個人の生き方に力を与えるものなのか。
 個人を標準化の枠組みに押し込めていく作業は、全体の傾向に迎合しやすい機械的な個人を作り出すことにつながり、20世紀に主力だったオートメーションラインの分業体制の産業や官僚機構に適応しやすい人物づくりの大量生産には向いているかもしれないが、それが本当に21世紀の人作りなのか。
 多くの大人が、自らの生命力を蝕んでいくと、自らの生が困難になるだけではなく、自らの存在が子供達の大きな負担になっていく。生物界を見渡せばわかることだが、親の世代が子供の世代の負担になることが当たり前の生物を私は知らない。
 人類が生物の頂点にいるという考えは傲慢である。人類など数百万年、ホモサピエンスに限っていえば、たかが数万年の存続であり、数千万年、数億年存続し続けている他生物の生命力の方に眼を向けるべきだ。歳月に耐え得る力の方が、今この瞬間の影響力よりも生命力としては偉大だと私は考えるので、その考えにそって、自分の人生を整えていくし、子供を育てるし、物を作るし、場を作っていこうと思う。

 だから、風の旅人の最新刊のテーマは「死の力」は、私にとっては、当たり前に「生の力」なのだ。

 

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