進化とは何か!??

 この一週間ほどの間に、とても大事な気づきが二つほどあった。

 一つ目は、7月20日に建仁寺の両足院で行なった第1回の風天塾。そして、もう一つは、7月23日に高野山で行なわれた志村ふくみさんの草木染めの実習と講演(というより、若い人も交えての対話)。
 風天塾では、ゴリラの研究で世界をリードする山極寿一さんと、「人類とは何か」の旅を40年にわたって続けてきた関野吉晴さんをゲストに、熱気のある対話がなされた。
 興味深い話はたくさんあったが、なかでも、ゴリラ、狩猟採集の人間、農耕の人間の違いは、進化の段階の違いではなく、それぞれがそれぞれの中で進化しているのではないかという話に、目が開かれたような思いになった。
 現在の狩猟採集の人々は、昔から今あるような形ではなく、長い時間をかけて変容してきている。ゴリラもまた同じ。
 つまり、それぞれが、それぞれの生存環境の中で、生の営みを洗練させてきているのだ。
 日本の歴史を見ても、主に狩猟採集を行なっていた縄文人が、主に農耕を営む弥生人に”進化”したわけではない。
 縄文人は、もしかしたら最初は獲物を追って移動生活を続けていたかもしれない。ある段階で、なぜか狩猟採集には不利だと思われる定着生活を行い、しかも、狭いエリアに多くの集落が集中し、極めて長いあいだ、その場所を動いておらず、栗の栽培など農耕も行なわれている。そして、集落の傍には神殿のような聖域が設けられている。集落が先で後から聖域ができたのではなく、もしかしたら、聖域が先かもしれない。
 そして長いあいだ、平和な時代が続いたが、ある時、別の文化を身につけた渡来人が大挙して押し寄せて、時代は”弥生”になった。
 縄文の時代の中でも、闘いはあったかもしれないが、できるだけ深刻な闘いを回避する方法を作り出して、平和の時代へと洗練させた。
 農耕時代になってからも、戦乱ばかりだったわけではなく、たとえば平安時代とか、後の江戸時代とか、闘いの少ない平和の時代もあった。
 ゴリラやチンパンジーも、南米ジャングルのヤノマミ族やマチゲンガ族にしても、アフリカのピグミー族にしても、生きているかぎり、まったく闘いがないということはありえない。むしろ、ある程度の闘いは、免疫力(抵抗力)を高めるのに必要ということもある。しかし、それぞれの集団の中で、時間をかけて、できるだけ深刻な事態に陥るような闘いを回避する為の様々な社会的装置を作り出している。仮に闘いが起こったとしても、双方が致命傷を負う闘いにならない方法を編み出しているのだ。
 他のどんな生物でもそうだ。生物にとって進化とは、月にロケットを飛ばすことではなく、”食べる”という生の基本が崩れないように環境を守りながら、できるだけエネルギーの消耗を避け、深刻な闘いを回避するための方法を創造していく過程を言うのではないか。
 私たちホモサピエンスは、他の生物に比べて、強力な牙も爪も毛皮ももたず、弱さが際立っている。同じ人類のネアンデルタール人に比べても体格的にかなり劣る。しかし、ネアンデルタール人は滅び、ホモサピエンスが生き残った。山極さんの話では、双方が闘ってホモサピエンスが勝利したという事実証拠はどこにもないらしい。だとすれば、何かしらの大きな環境変化が起こった時に、ホモサピエンスは、生き延びる知恵を働かせることができて、ネアンデルタール人は、それができなかった。
 もしかしてホモサピエンスは、自らの弱さを自覚し、その分、先を見通す力が優れていたのかもしれない。臆病ゆえに、痛い目にあったことや、うまくいった時のことを記憶する力にすぐれ、環境変化が起こった時、起こりそうな時に、従来の方法に固執してはいけないということを認識していたのかもしれない。弱いからこそ、柔軟性に優れ、その柔軟性が、危機を回避させる力となったかもしれない。
 弱いゆえに、慎重で、思慮深く、節度を重んじる。でもその反面、弱いゆえに、狡賢く、卑怯で、追いつめられると不安のために冷静になれず、ヒステリーを起こして何をしでかすかわからない。弱いものの心は、大きな振り子のように、揺れ動く。
 その振り子がどちらにふれるかによって、同じホモサピエンスでも行なうことは大きく違ってくる。
 その弱さの自覚と、弱さへの対処方法を、マチゲンガ族やピグミー族は長い年月をかけて洗練させてきた。
 それに比べて現代人はどうだろう。ゴリラやマチゲンガやピグミーが備えている巧みなバランス感覚が失われて、現代人の中には、あまりにも極端で性急な”心理”が生まれている。この性急な”心理”の背後には何があるのか。
 現代人が、自らの生を進化、洗練させるためには、まだ時間が十分ではない、ということもあり得る。
 または、現代人が生きる世界が広がりすぎて、世界の中の関係を自分の五感を通して感じとれず、他人が伝える知識情報に翻弄されやすくなっているということもある。
 生の基本である、食物の獲得、そして、生まれることや死ぬことが自分の身体感覚から遠いところに置かれ、生の基本が見失われているということもある。
 弱さを自覚したところから生を進化させ洗練させていくためには、自分の感覚を敏感に保ったまま、世界のリアリティを見失わず、時間をかけて取りくんでいかなければならない。
 時間をかけることに対して、耐性がなくなったらヤバいのだ。残された時間はあまりないと、脅かすこともダメなのだ。
 めんどうくさく感じたり、非効率だと考えたり、近道ばかり探したり、ということをやっていると、かえって複雑になり、どうしようもない事態に陥りやすい。手短かにやろうとして、ハウツー、マニュアルに頼って、経済合理性ばかり求めると、けっきょくは堂々巡りで、前に進んでいるように思っていても、実際には何も変わらない。それどころか後退していることはよくある。
 そして何よりも、本当は弱いくせに、弱いという事実を認めず、頑固一徹になって柔軟性を失い、力づくで物事を解決しようと性急に行動する時、人間は大きな禍いを起こす。
 それは、弱さゆえのヒステリーであり、ヒステリーをおこした種は、人類にかぎらず、進化や洗練と逆向きに走りやすく、滅びやすい。
 ヒステリーを起こす原因は色々あるだろうが、一番は、不安だろう。生物にとって、不安のない状況を作り出すことは不可能であり、不安への耐性力を、どのように高めていくかが、生物の進化や洗練の最も大事なポイントだという気がする。それゆえ、ヒステリックになんでもかんでも”闘い”や”競争”を非難するのも問題だろう。ある程度の闘いや競争があって、免疫力、生命力は高められるし、そうした経験がまったくないと、外敵に対する対処方法がわからず、激しいアレルギー反応を起こして自滅してしまう場合もある。

 子育てにおいても、”褒める教育”などといって、一面的でパターン化された教育はむしろ危険だ。世界は予測不可能であり、自分に快適ではない刺激があっても十分に耐えられる力の方が、生存にはよほど重要だろう。

 いずれにしろ、バランスが大事なのだ。
 だから、現在の問題を大きな声で非難し、性急に解決策を求め、時には過激に行動し、人々の不安を煽る”反対運動”は、全体のヒステリーの波動を大きくすることにつながって、バランスを損ないやすく、慎重に冷静に自分の頭で考えて見極めていくという”不安に対する耐性力”を弱め、結果的に、全体として大きな流れに乗りやすい危うい組織体を作り出してしまう懸念もある。
 敢えて言うけれど、そうした過激な言動は、生物として、生存の為の進化や洗練と逆向きであるかもしれない。原理主義者の破壊行動を含め、現代の対立構造の多くは、そのような傾向にある。

 密林の中に棲息していた猿が、地上に降り立って二足歩行を初めて人類の歴史が始まった。しかし、そのプロセスは、進化ではなく、生の形態が枝分かれした”変化”にすぎない。

 人類の歴史が始まった後も、何らかの環境要因の影響を受けて、生の形態の変化は幾つも枝別れした。進化というのは、枝分かれした生の形態の中で、どれだけ賢明な生存戦略を生み出していくかなのだ。そして、”賢明さ”というのは、深刻な対立を回避し、互いの関係力を深め、安定した営みを長く続けられる状態を作り上げることを言う。現生人類以外の多彩な生物が、そうした進化を経て、この地上に長きにわたって生存し続けている。ゴキブリや蜂よりも猿や人間の方が進化しているのではなく、彼らの方が、遥かに長い時代を生き抜ける”進化”した生の形態を作り上げている。

 科学技術文明という特殊な枝分かれのなかにいる私たち現世人類は、この生の形態の中で”進化”していくか、別の生の形態に枝分かれしていくかの瀬戸際にいるのかもしれない。

Kz_48_h1_3

風の旅人 復刊第4号 「死の力」 ホームページで発売中!