即興とは何か? 原始感覚とは何か?

 

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 今年も、長野県の信濃大町郊外の木崎湖で行なわれた原始感覚美術祭に参加してきた。

 この美術祭の特長は、美術制作者達が、この湖の畔に寝泊まりしながら、この地の空気を吸い、水を飲み、この地で食べ、眠り、星空を眺め、集い、語らい、そうして自分の中に生じてきた感覚に基づいて作品を作り、それをどこで表現するかを決めていくプロセスにある。
 この地に満ちている様々な”アヤ”を全身で感じ、触発され、つながり、何かを生み出すこと。その何かとは何か?
 今年で5回目になるこの美術祭を立ち上げた杉原信幸君は、次のように言う。
 「ただアートや芸術をやるのではなく、生活や信仰、農業、経済、科学など、分化できない生きることそのものを、木崎湖という地、と、その地に暮らす人を含めた新たな在り方の ”文化”をつくること」

 文化とは何か? 文化と文明との違いは何か?
 文明と文化の違いは、いろいろ解釈され、civilとcultivate  で説明されることが多く、文化は、「耕す」という意味だから農耕的なニュアンスが強く、文明は都市的なものだと説明されることもある。
 cultivateには「手入れ」という意味があるので、時間的な継続性、関与性が含有されている。手入れの為には対象のことを深く知っていなければならない。その為に対象と対話していかなければならない。それに対して、文明は機械的、技術的な側面が強く、対象を管理したり、処理する行為ということになる。
 英語から考えるばかりでなくもっと単純に日本語から読み解けば、文というのは、”アヤ”で、アヤシ とか、物事のアヤ。文というのは、中国では、もともと入れ墨だけど、それ以前に、おそらく古代オリエントかどこかで、聖なる場所とか動物にXの印をいれていたのが起源と考えられる。 そして、xが回転して、インドでは卍になった。
 いずれにしろ、聖なる何かを象徴するものが、文であり、アヤとかアヤシということになる。
 文明は、その字のとおり、アヤとかアヤシをあからさまにしようとすることで、文化は、アヤとかアヤシが、その字のとおり、化けたものと考えればいい。
 アヤとかアヤシには、色々なものが含まれている。
 表面的には見えないが、探っていくと見えてくる入り組んだ仕組みとか、裏表とか、含みのある表現、微妙なニュアンス、何かしらの力が働いて生じる様々な模様、形、とくに斜めに線が交わったところ・・・。人間は、世界の中に、そうしたアヤがあることを観て、それが何となく重要だということを識っている。
 文化と呼ばれるものは、そのアヤとかアヤシをできるだけ損なわないように物事を伝える装置と言い換えてもよいだろう。祭りとか、意味はよくわからないが、昔から今日まで伝えられている様々な儀式とか、風習とか、伝統芸能や芸術と呼ばれるものには、そうした文(アヤとかアヤシ)が秘められており、それらは論理ではなく、体験的に感じとるしかない。
 それに対して文明は、そうしたアヤを論理的に説明し、明らかにしようとする。文明は、そうした明瞭さを好む性質があるため、平明なものを重要視し、その勢いが強くなりすぎると、アヤやアヤシの居場所がなくなったり、無きもののように扱われる。

 しかし、文明の有力な手段である科学も、今日では、たとえば量子力学などにおいては、アヤそのものと向き合わざるを得ない状況にある。
 その逆に文化・芸術の方は、文明化された社会に受け入れられることを欲するあまり、本来の役割であるアヤとかアヤシと向き合うことを避け、平明な表現を志向したり、科学的実験のように世界を分割したり再構築する試みを繰り返している。滑稽なことだ。
 原始感覚美術祭の主宰者である杉原君が、「ただアートや芸術をやるのではなく」と言う時の芸術は、本来の芸術ではなく、科学的実験のように人間に都合良く世界を処理する結果、一種の装飾品や娯楽品となり、人間生命の本質から大きく枝分かれしてしまっている状態のものを指すのだろう。
 杉原君は、昨年、木崎湖畔に数多くの石を立て、ストーンサークルを作り上げた。今年、その中に水を引いて水田を作り、何とも異様で心惹かれる場を生み出していた。そして、原始感覚美術祭のフィナーレーにおいて、雪雄子さんが、そのストーンサークルで即興舞踏を演じた。
 夕映えが木崎湖の凪いだ湖面をうっすらと朱に染め、背後の山の上に白い満月が浮かんでいた。
 まさに”アヤシ”の空気に満ちており、私は、古代の”文化の興り”の瞬間に立ち会っているような気持ちになった。
 月、湖、石、水田、それ以外にそこにあるもの全てが、即興舞踏を通して、”一つ”となり、何かが興っているという体感。興るというのは、もともとは共同作業という意味で、白川静さんの説明では、酒を大地に注いで地霊を呼び起こす儀礼を表す形だそうだ。そして、即は、”すぐさま”とか”瞬間的”という意味にとられることが多いが、もともとは、二つのものが互いに表裏の関係で分離できない状態のこと。
 それゆえ即興というのは、その場に在るものの状況に応じて、それらを一つに束ね合わせるような方法で、地霊を呼び起こすように、日常の習慣のなかで特定の在り方に居着いて鈍っている五感の本来の力を取り戻すことではないか。ふだんとは違う何か異様な体感。頭ではなく身体感覚を直接揺さぶられ、日常とは異なる次元に運ばれ、それとともに、自分の心身が整うような清麗な感覚を受ける。そして、本質的な何かに触れているという確かな実感。
 芸術体験というのは、まさにそういう即興的体験と言える。絵画や彫刻のように静止しているように見えるものの場合も、その制作の過程で本質的な意味での”即興”が積み重なっているものは、即興の過程が見る人に波のように押し寄せてきて、制作者の精神と同じ何かを分かち合うことになる。
 古い城壁の石垣などは、芸術と分類されてはいないが、同様の即興的体験を興す。
 どれ一つ同じ形や大きさがない石と石が、見事なまでに一つになっている様は、感動的であり神秘的だ。まったく同じ石はないから、まったく同じ石垣を作ることはできない。どの石垣も唯一だ。しかし、その石垣を作った人間は、他の場所で、形や大きさがバラバラな石を組み上げて、見事な石垣を作り上げる。そういう石垣は、歳月に耐える強靭さがあるばかりでなく、時代を超えて人間の心を打つ永遠性がある。
 生きている文化・芸術にはそういう力がある。文化というのは、現在と古典というように簡単に分化されて整理されてしまう状況に陥ったものではない。そういうものは、文化の化石にすぎず、博物館の中の標本のようなものだ。
 生きている文化というのは、見事な石垣のように、それを見る人が、自分の中から失われてしまっている力に気づき、現在と過去、人為と自然などと、簡単に分つことのできない本質的で普遍的なものに添って生きることの喜びを少しでも垣間見られるような人間の創造行為と言える。決められたことを反復する生活の中で意識できなくなっている生命の様々なアヤが、そこに化けており、それに触れることで覚醒させられる。
 即興を、その瞬間に自分の好きなように演じて自分を解放することだと思っている人がいるが、それはただの自己主張によるパフォーマンス。
 言葉を使って何かを話す場合も、お互いの言葉で触発されて新たな言葉が出てくるというように、対話が実現できている状況ではじめて、即興的な会話と言える。
 事前打ち合わせをせずに、ただ自分が知っていることをダラダラと話していても、即興とは言えない。決まったことをやらない、筋書きがない=即興ということではない。
 即興は、分別で分離できないアヤシイ何かを共同で立ち上げること。
 木崎湖畔のストーンサークルで行なわれた舞踏は、その場に存在している様々なアヤと、雪さんと杉原君の共同作業であり、見事な即興だった。。
 即興を通して感じられるアヤシサは、私たちが現実だと思い込んでいる現代文明の狭い領域の外に広がる世界を感じさせてくれる。今は失われてしまったけれど、やり方次第で、それを取り戻せる。
 そして、原始感覚というのは、この世界において本質的に大切なものを直観していて、それに近づくためのやり方を即興的に試行錯誤している、分別に曇らされない未分化の精神状態のことを指すのだと思う。 



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